『格差』と『貧困』と『不平等』を広げる自民党・創価学会・経団連を抹殺せよヽ(´∀`)9 ビシ!! これでは、日本のお先は真っ暗(*∀*)YO!!
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昨日深夜に行われた世界最高峰のレースと言われる仏蘭西「凱旋門賞」に、我が国の誉れ高き韋駄天最強馬・ディープインパクトが怒濤の如く駆け抜けた。
しかし日本の神風は、遠く仏蘭西の地までは届かなかったようだ。結果は残念ながら、3着だった。今までずっと欧州馬の独壇場だった歴史に、ディープインパクトが新たな歴史の一歩を刻むことはできなかった。今まで「凱旋門賞」に国産馬の最高位は2着だった。それも考えると、日本の競走馬の歴史の中でも、目立った成果は得られなかった。
ディープインパクトの最後の驚異的な追い上げも見られなかった。後方からプライドと呼ばれる地元の仏蘭西馬に追い上げられる始末である。これはディープインパクトの馬生(ばせい)初のことだったらしい。その伝家の宝刀を仏蘭西の地で披露できなかったことは、正直悔やまれる。しかし、十分健闘してくれたとは思う。巴里のロンシャン競馬場は、ディープに取って初めての競馬場だったということと、後半はかなりの上り坂だったということも影響していたのかも知れない。
競馬に全く明るくない自分だが、ニュースで流れるディープインパクトの走りを見ていると、4000人から5000人の仏蘭西まで駆けつけた競馬ファンの気持ちが良く分かる。5万人だから、その数の多さは筆舌に尽くしがたい。単勝オッズでは他ライバルを抜いて、1.1倍の一番人気だったらしい。それもこの5000人余りの日本人が、単勝馬券を購入しまくった結果らしい。そういえば売店や両替所に日本語が書かれていた。着物を着た女性もいた。日の丸が舞った。あれには、何だか変な心地よい違和感を与えてくれた。日の丸のはちまきをしたテンション上げ上げの日本人を撮影している仏蘭西のメディアが、ニュースにも映っていた。それほど、あの走りは人々を魅了する。
それだけに長年の悲願を果たせず、入賞も出来ずにレースが最悪の結果に終わってしまったことを、競馬ヲタクならずとも残念がっているに違いない。
そして一瞬、『競馬』が『博打』であることを忘れさせてくれた。何だか昨日はちょっとした「祭り」という感じであった。
同じ『博打』と聞いて思い出すのが、『パチンコ』である。
そして、「国民的娯楽」や「国民的遊戯」などと褒めそやされることがある。
この言葉を耳にしたり、目にしたりすると、思わず鼻で笑ってしまう。
ギャンブルには「還元率」というものがある。
「還元率」とは、そもそも何か?
簡単に言ってしまえば、自分が賭けた金の何割が自分に戻ってくるか、ということだ。
パチンコを擁護する人間は、いつも必ずその「還元率」を持ち出す。
何故なら、『競馬』と言った公営ギャンブルよりも、その率が高いからだ。
『競馬』の場合は、大体75%程度と言われ、
『パチンコ』の場合は、大体80~90%程度と言われる。
ちなみに、宝くじの場合は、50%程度と言われている。
例えば1万円賭ければ、『競馬』の場合、2500円負けて、
『パチンコ』の場合、1000~2000円程度、平均して負けるということ。
宝くじの場合、1等3億円などと賞金額が極めて高いため、
その負ける率も比例してかなり高くなっている。
つまり、「還元率」が低くなる。
ただ一言付け加えておかなければいけない。
「還元率=儲かっている人の率」ではない。
『パチンコ』にハマっている人間の9割程度は、損している。
「還元率=儲かっていない人の率」と言い換えても良いかもしれない。
パチンコの場合、一度に賭けるの額が小さいから当たり前である。
つまり、同時に一度に当たる額が小さいということだ。
だから、「還元率」が高い。
競馬も比較的高い方だが、100円から数百万円まで賭けられる。
100円で購入した馬券が、数十万円になることもたまにある。
パチンコの還元率が低ければ、それこそ単なる「ぼったくり」。
つまり、逆に考えると、パチンコで儲けようと思えば、
長時間、金を払ってやり続けなければ儲けが出ないと言うことだ。
『競馬』は一日何レースと限られている。
土日しか賭けることが出来ない。
しかも、
しかし、パチンコは大体、毎日開店している。
1日に賭けられる回数も無限だ。
金が尽きない限り、つぎ込める額も無尽蔵である。
ただ無機質に台の前で座っていればいいだけだ。
台を選ぶときに、多少頭を使うだけで、
それ以降は「思考停止」に陥らされる。
それに追い打ちをかけるかのように、
大音量の音楽が常に流れ、
周期的に目の前で光る
つまり、半ば「催眠状態」に陥りやすい。
しかも、常に煌々と店内は明るい状態で、
「時間的感覚」も奪ってしまう。
8月のかんかん照りの日に、自分の子供を車に待機させたまま、
何時間もパチンコに熱中し、それを熱中症で殺してしまう母親が、
時折ニュースなどで取り上げられるのが好例だ。
これほどたちの悪い『賭博』はない。
しかも、そんな『賭博場』が街中に溢れかえっている。
左を見てもパチンコ、右を見てもパチンコである。
また駅周辺の一等地に構えてるところも多い。
1時間の内に数万円、負けてしまう人間もざらである。
「娯楽」とはほど遠い。「遊戯」とはおよそ言い難い。
無機質にただ金を払い続けている多重債務者と酷似している。
何も文句を言わず、意思もない、ただの人形。
金を搾り取るだけ搾られている、ただのぼろ雑巾。
表現しようと思えば、いくらでも表現できる。
2006年3月に、『フォーブス誌』が調査した世界長者番付の中で、
ランクインした日本人・日本の中でほとんどがサラ金業者である。
そして、もう一つ目立った業者がある。それが『パチンコ』だ。
109位の毒島邦雄(SANKYO会長)
645位の岡田和生(アルゼ会長)
698位の韓昌祐(マルハン会長)がそれだ。
これは世界60億いる中での順位だ。
その資産額もハンパではない。
上から順に52億ドル(約5700億円)
12億ドル(約1320億円)
11億ドル(約1210億円)である。
書いているだけで、指が震えてきそうな額である。
もし、本当にパチンコの「還元率」が90%とすると、
これらのパチンコ業界のトップの資産額は、
果たして「妥当な額」だと誰が思えるのだろう。
『パチンコ』は、弱者から金品を漁っている『サラ金』と何ら性質的に変わらない。
庶民から金を貪り食う、汚らしいだけの豚なのだ。
これを「ギャンブル」と称することなど難しい。
ましてや、「遊戯」などと称することは絶対に不可能だ。
ただ昨日のニュースを見て分かるように、
『競馬』は、賭け事をしていない人間も楽しませてくれる。
例え100円で馬券を購入した奴だって、
100万円で馬券を購入した奴だって、
同じように見て楽しめる。
何も100万円払わなければ、楽しめないものではない。
『競馬』は生きている馬に投資する。
一瞬一瞬の馬の躍動的な走りに、対価を払うのだ。
これが『パチンコ』と決定的に違う。
他人が打っているパチンコ台を見て、
興奮できるギャラリーがこの世にいるだろうか。
有り得ない。
まあ『パチンコ』が糞だからと言って、別に『競馬』を擁護するつもりもない。
所詮は、どっちも『賭博』であることは紛れもない事実だからだ。
基本的に、どちらものめり込んでしまうと、人生が破滅する。
『賭博』で生計を立てようと思う人間は、病気である。
ただ「中毒性」と「普及性」のみを考えると、
『パチンコ』の方が遙かにのめり込みやすく悪質である。
国民が一丸となって、駆逐する必要がある。
『パチンコ』は家庭や、仕事や、お金や、夢や人生を奪うのだ。
しかし日本の神風は、遠く仏蘭西の地までは届かなかったようだ。結果は残念ながら、3着だった。今までずっと欧州馬の独壇場だった歴史に、ディープインパクトが新たな歴史の一歩を刻むことはできなかった。今まで「凱旋門賞」に国産馬の最高位は2着だった。それも考えると、日本の競走馬の歴史の中でも、目立った成果は得られなかった。
ディープインパクトの最後の驚異的な追い上げも見られなかった。後方からプライドと呼ばれる地元の仏蘭西馬に追い上げられる始末である。これはディープインパクトの馬生(ばせい)初のことだったらしい。その伝家の宝刀を仏蘭西の地で披露できなかったことは、正直悔やまれる。しかし、十分健闘してくれたとは思う。巴里のロンシャン競馬場は、ディープに取って初めての競馬場だったということと、後半はかなりの上り坂だったということも影響していたのかも知れない。
競馬に全く明るくない自分だが、ニュースで流れるディープインパクトの走りを見ていると、4000人から5000人の仏蘭西まで駆けつけた競馬ファンの気持ちが良く分かる。5万人だから、その数の多さは筆舌に尽くしがたい。単勝オッズでは他ライバルを抜いて、1.1倍の一番人気だったらしい。それもこの5000人余りの日本人が、単勝馬券を購入しまくった結果らしい。そういえば売店や両替所に日本語が書かれていた。着物を着た女性もいた。日の丸が舞った。あれには、何だか変な心地よい違和感を与えてくれた。日の丸のはちまきをしたテンション上げ上げの日本人を撮影している仏蘭西のメディアが、ニュースにも映っていた。それほど、あの走りは人々を魅了する。
それだけに長年の悲願を果たせず、入賞も出来ずにレースが最悪の結果に終わってしまったことを、競馬ヲタクならずとも残念がっているに違いない。
そして一瞬、『競馬』が『博打』であることを忘れさせてくれた。何だか昨日はちょっとした「祭り」という感じであった。
同じ『博打』と聞いて思い出すのが、『パチンコ』である。
そして、「国民的娯楽」や「国民的遊戯」などと褒めそやされることがある。
この言葉を耳にしたり、目にしたりすると、思わず鼻で笑ってしまう。
ギャンブルには「還元率」というものがある。
「還元率」とは、そもそも何か?
簡単に言ってしまえば、自分が賭けた金の何割が自分に戻ってくるか、ということだ。
パチンコを擁護する人間は、いつも必ずその「還元率」を持ち出す。
何故なら、『競馬』と言った公営ギャンブルよりも、その率が高いからだ。
『競馬』の場合は、大体75%程度と言われ、
『パチンコ』の場合は、大体80~90%程度と言われる。
ちなみに、宝くじの場合は、50%程度と言われている。
例えば1万円賭ければ、『競馬』の場合、2500円負けて、
『パチンコ』の場合、1000~2000円程度、平均して負けるということ。
宝くじの場合、1等3億円などと賞金額が極めて高いため、
その負ける率も比例してかなり高くなっている。
つまり、「還元率」が低くなる。
ただ一言付け加えておかなければいけない。
「還元率=儲かっている人の率」ではない。
『パチンコ』にハマっている人間の9割程度は、損している。
「還元率=儲かっていない人の率」と言い換えても良いかもしれない。
パチンコの場合、一度に賭けるの額が小さいから当たり前である。
つまり、同時に一度に当たる額が小さいということだ。
だから、「還元率」が高い。
競馬も比較的高い方だが、100円から数百万円まで賭けられる。
100円で購入した馬券が、数十万円になることもたまにある。
パチンコの還元率が低ければ、それこそ単なる「ぼったくり」。
つまり、逆に考えると、パチンコで儲けようと思えば、
長時間、金を払ってやり続けなければ儲けが出ないと言うことだ。
『競馬』は一日何レースと限られている。
土日しか賭けることが出来ない。
しかも、
しかし、パチンコは大体、毎日開店している。
1日に賭けられる回数も無限だ。
金が尽きない限り、つぎ込める額も無尽蔵である。
ただ無機質に台の前で座っていればいいだけだ。
台を選ぶときに、多少頭を使うだけで、
それ以降は「思考停止」に陥らされる。
それに追い打ちをかけるかのように、
大音量の音楽が常に流れ、
周期的に目の前で光る
つまり、半ば「催眠状態」に陥りやすい。
しかも、常に煌々と店内は明るい状態で、
「時間的感覚」も奪ってしまう。
8月のかんかん照りの日に、自分の子供を車に待機させたまま、
何時間もパチンコに熱中し、それを熱中症で殺してしまう母親が、
時折ニュースなどで取り上げられるのが好例だ。
これほどたちの悪い『賭博』はない。
しかも、そんな『賭博場』が街中に溢れかえっている。
左を見てもパチンコ、右を見てもパチンコである。
また駅周辺の一等地に構えてるところも多い。
1時間の内に数万円、負けてしまう人間もざらである。
「娯楽」とはほど遠い。「遊戯」とはおよそ言い難い。
無機質にただ金を払い続けている多重債務者と酷似している。
何も文句を言わず、意思もない、ただの人形。
金を搾り取るだけ搾られている、ただのぼろ雑巾。
表現しようと思えば、いくらでも表現できる。
2006年3月に、『フォーブス誌』が調査した世界長者番付の中で、
ランクインした日本人・日本の中でほとんどがサラ金業者である。
そして、もう一つ目立った業者がある。それが『パチンコ』だ。
109位の毒島邦雄(SANKYO会長)
645位の岡田和生(アルゼ会長)
698位の韓昌祐(マルハン会長)がそれだ。
これは世界60億いる中での順位だ。
その資産額もハンパではない。
上から順に52億ドル(約5700億円)
12億ドル(約1320億円)
11億ドル(約1210億円)である。
書いているだけで、指が震えてきそうな額である。
もし、本当にパチンコの「還元率」が90%とすると、
これらのパチンコ業界のトップの資産額は、
果たして「妥当な額」だと誰が思えるのだろう。
『パチンコ』は、弱者から金品を漁っている『サラ金』と何ら性質的に変わらない。
庶民から金を貪り食う、汚らしいだけの豚なのだ。
これを「ギャンブル」と称することなど難しい。
ましてや、「遊戯」などと称することは絶対に不可能だ。
ただ昨日のニュースを見て分かるように、
『競馬』は、賭け事をしていない人間も楽しませてくれる。
例え100円で馬券を購入した奴だって、
100万円で馬券を購入した奴だって、
同じように見て楽しめる。
何も100万円払わなければ、楽しめないものではない。
『競馬』は生きている馬に投資する。
一瞬一瞬の馬の躍動的な走りに、対価を払うのだ。
これが『パチンコ』と決定的に違う。
他人が打っているパチンコ台を見て、
興奮できるギャラリーがこの世にいるだろうか。
有り得ない。
まあ『パチンコ』が糞だからと言って、別に『競馬』を擁護するつもりもない。
所詮は、どっちも『賭博』であることは紛れもない事実だからだ。
基本的に、どちらものめり込んでしまうと、人生が破滅する。
『賭博』で生計を立てようと思う人間は、病気である。
ただ「中毒性」と「普及性」のみを考えると、
『パチンコ』の方が遙かにのめり込みやすく悪質である。
国民が一丸となって、駆逐する必要がある。
『パチンコ』は家庭や、仕事や、お金や、夢や人生を奪うのだ。
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昨日21日、宮城県議会がドライバーに酒を提供した飲食店に対して、罰則を設ける条例を制定することを発表した。宮城県では、去年5月に通学途中の高校生の列に飲酒ドライバーが突っ込んで、3人が死亡するという事故が起きている。それを重く見た県が、罰則規定を盛り込んだ条例制定に踏み切ったと言うことだ。
飲酒をしたドライバーだけではなく、それを止めなかった、または飲酒を勧めた同乗者に対して幇助(ほうじょ)罪で立件するという話はよく聞く。さすがにそれを提供した飲食店に罰則を与えるというのは行き過ぎかなと思いつつ、よく思い返してみると今月15日に警察庁が来年の通常国会で、同じようにドライバーに酒類を提供した者も処罰できる罰則規定の新設を検討していた。もしかしたら、それに宮城県議会は触発された面も一部あるのかも知れない。しかしながら、まだ宮城の場合は具体的な罰則規定はまだ決まっておらず、所詮パフォーマンス止まりの条例なのかなと思ったり。
飲食店にとって、この法律や条令は致命的だと思う。例えば、沖縄は飲酒運転事故の件数だか割合が全国一らしい。そこで沖縄に展開している大手飲食チェーンでは、まず席に着いたらそのドライバーのキーを預かり、ドライバーが酔っていないことを確認して、キーを返すらしい。ドライバーが不審そうに嫌々そうに、店員に自分の車のキーを渡す様を見て、思わずタカトシの如く「学校か」とツッコミそうになった。
もしドライバーが酔っていればどうするのか。必ず代行運転屋に電話をさせて、このドライバーが運転しないと言うことが確認できたら返すシステムを取っているらしい。何とも面倒くさい、おせっかいな飲食店である。いくら美味い飯を出されても、不味くなりそうだ。来年の通常国会で、もし酒類を提供した飲食店や人間に罰則規定を設ける法案が通ってしまえば、この沖縄方式が全国規模で広がるんじゃないかと思う。いや広げざるを得なくなると思う。
飲酒をしたドライバーだけではなく、それを止めなかった、または飲酒を勧めた同乗者に対して幇助(ほうじょ)罪で立件するという話はよく聞く。さすがにそれを提供した飲食店に罰則を与えるというのは行き過ぎかなと思いつつ、よく思い返してみると今月15日に警察庁が来年の通常国会で、同じようにドライバーに酒類を提供した者も処罰できる罰則規定の新設を検討していた。もしかしたら、それに宮城県議会は触発された面も一部あるのかも知れない。しかしながら、まだ宮城の場合は具体的な罰則規定はまだ決まっておらず、所詮パフォーマンス止まりの条例なのかなと思ったり。
飲食店にとって、この法律や条令は致命的だと思う。例えば、沖縄は飲酒運転事故の件数だか割合が全国一らしい。そこで沖縄に展開している大手飲食チェーンでは、まず席に着いたらそのドライバーのキーを預かり、ドライバーが酔っていないことを確認して、キーを返すらしい。ドライバーが不審そうに嫌々そうに、店員に自分の車のキーを渡す様を見て、思わずタカトシの如く「学校か」とツッコミそうになった。
もしドライバーが酔っていればどうするのか。必ず代行運転屋に電話をさせて、このドライバーが運転しないと言うことが確認できたら返すシステムを取っているらしい。何とも面倒くさい、おせっかいな飲食店である。いくら美味い飯を出されても、不味くなりそうだ。来年の通常国会で、もし酒類を提供した飲食店や人間に罰則規定を設ける法案が通ってしまえば、この沖縄方式が全国規模で広がるんじゃないかと思う。いや広げざるを得なくなると思う。
つい先日も、朝日新聞の記者が「酒気帯び」運転で検挙され、朝日新聞から昨日(21日)か今日(22日)あたりに懲戒解雇された。本当のギリギリの呼気中アルコール濃度0.15mg/lでの検挙だったらしく、懲戒解雇は、少し行きすぎた処分ではないかとも思ったりする。この程度のアルコール濃度では、判断力や運転能力の低下も見られないと聞く。大体1合のビールが完全に抜けきるのは、大体、数時間程度で抜けきるらしい。しかし、この記者は飲酒してから半日以上経っていた。もちろんこの記者が嘘の証言している可能性も高いが、何の知識もない一般市民が、自分が飲酒した酒がどの程度で抜けきるか分かりうるはずがない。「飲んだら乗るな」とはよく言われるが、これでは「一度飲んだら、いつまで乗っちゃいけないんだ」と素朴な疑問を持ってしまう。
個々人によって様々に異なるから、明確に出来ないのは当たり前なんだけど、逆に0.12mg/l程度なら飲酒して運転しても構わないという変な例外ができてしまう。少なくとも、一般市民にはそのさじ加減は分からないから、これぐらいの量なら引っかからないと短絡的、楽観的に思い込む節がある。ついついちょっと飲んじゃう。ちょっとでも飲んでしまったら、もう少しもう少しという具合に、ますます飲んでしまう。この悪循環になってしまっているところも否定できないと思う。法律を厳しく改正するのであれば、「ちょっとでも酒を口にしたらアウトですよ」とドライバーが思わず実感してしまうような法律にしなければならないと思った。
警察庁は今月10日、その「酒気帯び」の基準値を現行の0.15mg/lから0.10mg/lに下げることを検討し始めたが、果たしてそれを実現できるかどうかは不透明な印象を持った。一時的に数年は効果を保つかも知れないけど、数年もしたらドライバーもその数字に慣れてしまうから、いずれ減少から増加に転じる気がする。現に、2002年に道交法が改正され、酒気帯び運転の基準値が0.25mg/lから0.15mg/lに下げられ、飲酒運転死亡事故減少に一役を買ったが、最近は効果が全く見られなくなっている。
個々人によって様々に異なるから、明確に出来ないのは当たり前なんだけど、逆に0.12mg/l程度なら飲酒して運転しても構わないという変な例外ができてしまう。少なくとも、一般市民にはそのさじ加減は分からないから、これぐらいの量なら引っかからないと短絡的、楽観的に思い込む節がある。ついついちょっと飲んじゃう。ちょっとでも飲んでしまったら、もう少しもう少しという具合に、ますます飲んでしまう。この悪循環になってしまっているところも否定できないと思う。法律を厳しく改正するのであれば、「ちょっとでも酒を口にしたらアウトですよ」とドライバーが思わず実感してしまうような法律にしなければならないと思った。
警察庁は今月10日、その「酒気帯び」の基準値を現行の0.15mg/lから0.10mg/lに下げることを検討し始めたが、果たしてそれを実現できるかどうかは不透明な印象を持った。一時的に数年は効果を保つかも知れないけど、数年もしたらドライバーもその数字に慣れてしまうから、いずれ減少から増加に転じる気がする。現に、2002年に道交法が改正され、酒気帯び運転の基準値が0.25mg/lから0.15mg/lに下げられ、飲酒運転死亡事故減少に一役を買ったが、最近は効果が全く見られなくなっている。
そもそも酒を飲んでなかったとしても、交通事故は起きる。脇見や信号が黄色から赤に変わる微妙な境目に突進してしまったりとか、様々なドライバーの不注意から起きる。その不注意を招くのは、決して「飲酒」だけが原因ではない。自分も車にひかれたことがあるが、相手のドライバーは素面(しらふ)の若い女だった。見通しが悪く、事故が起きやすい交差点だった。
そこまで「飲酒」が駄目だとみんなが躍起になるのであれば、いっそのこと法律で『酒』の販売を禁止すればいい。逆に考えると、人を殺してしまう状況を作っている『酒』の販売や製造を法律で認めていいのかという極論まで発展する。
つい先日も、何を思ったか電車を止めようとしたJR東海の馬鹿社員が、線路に立ちふさがって実際に電車を止めてしまった。その東海社員が何を宣ったか。「酒に酔っていて、何で電車を止めようと思ったか分からない」。巫山戯るなとw。何年か前にも、ベロンベロンに酩酊したリーマンのおじさんが、プラットフォームにぶらっと落ちた。それを助けようとした韓国人留学生が電車に轢殺されてしまったことも記憶に新しい。今日もまたあの日テレが飲酒で、不祥事を起こした。船越という中堅ベテランのアナウンサーがベロンベロンに酔って、敬礼の女子アナにセクハラをし降格させられた、
「警察庁24時」というTVの特番で、酩酊状態のリーマンが暴力をふるったりとか、滑って転んで頭に大けがをして、流血している映像をよく見る。
飲酒によって引き起こされる事件や事故は、別に「交通事故」に限った話ではないのだから、いっそのこと酒類全般の販売や輸入、日本国内での製造すらも法律で全面的に禁止すればいい。変な不公平感をドライバーに与えることもないし、被害者も出ることはない。
そこまでして飲みたい『酒』というのは一体何者なんですか?
そこまでして販売しなければいけない『酒』というのは一体何者なんですか?
『酒』がなけりゃ生きていけないんですか?
と小一時間問い質(ただ)したい。
と、下戸が抗議してみるてst。
そこまで「飲酒」が駄目だとみんなが躍起になるのであれば、いっそのこと法律で『酒』の販売を禁止すればいい。逆に考えると、人を殺してしまう状況を作っている『酒』の販売や製造を法律で認めていいのかという極論まで発展する。
つい先日も、何を思ったか電車を止めようとしたJR東海の馬鹿社員が、線路に立ちふさがって実際に電車を止めてしまった。その東海社員が何を宣ったか。「酒に酔っていて、何で電車を止めようと思ったか分からない」。巫山戯るなとw。何年か前にも、ベロンベロンに酩酊したリーマンのおじさんが、プラットフォームにぶらっと落ちた。それを助けようとした韓国人留学生が電車に轢殺されてしまったことも記憶に新しい。今日もまたあの日テレが飲酒で、不祥事を起こした。船越という中堅ベテランのアナウンサーがベロンベロンに酔って、敬礼の女子アナにセクハラをし降格させられた、
「警察庁24時」というTVの特番で、酩酊状態のリーマンが暴力をふるったりとか、滑って転んで頭に大けがをして、流血している映像をよく見る。
飲酒によって引き起こされる事件や事故は、別に「交通事故」に限った話ではないのだから、いっそのこと酒類全般の販売や輸入、日本国内での製造すらも法律で全面的に禁止すればいい。変な不公平感をドライバーに与えることもないし、被害者も出ることはない。
そこまでして飲みたい『酒』というのは一体何者なんですか?
そこまでして販売しなければいけない『酒』というのは一体何者なんですか?
『酒』がなけりゃ生きていけないんですか?
と小一時間問い質(ただ)したい。
と、下戸が抗議してみるてst。
最近、公務員の飲酒運転による事故がクローズアップされている。福岡市職員が起こした先月の事故が一番影響しているのだろう。ただ、飲酒運転は公務員だけが起こしているのか?また公務員という職業柄、起こしやすい事故なのか?そんなことは決して有り得ない。もちろん公務員を擁護するつもりは当然無い。
昨今の行政批判は素晴らしいことである。京都市職員、特に環境局の犯罪は目に余るものがある。薬物やら何やら、正常な社会人が犯す犯罪ではない。ただ論点がずれている。自分の目にはそういう行政叩きの一環として、飲酒事故を利用しようとしているだけにしか映らない。いや、それが悪いと言っているのではない。しかし、その一環として飲酒事故を起こした公務員を批判をした場合、いずれすぐにでもまた違う公務員の犯罪・事件に焦点が移ってしまう。それでは、国民の飲酒事故に対する認識は何も変わらない。つまりは、陰惨な事故は防げないのである。
ここ数年減少傾向にあった飲酒運転の事故件数が一転増加傾向に転じている。飲酒運転の検挙件数も増えている。それは何故か。危険運転致死罪が新設された当初から、徐々に適用件数は減っていってるからだ。自分は酒に弱い体質なので、「新設されて良かったな」程度で、特に気にも留めてなかったが、ヘビードランカーはやはり気になるところである。危険運転致死傷罪が有名無実の法律とまでは言わないが、実際飲酒をしてても適用される可能性は低いと既に学習してしまったのだ。「飲酒運転=怖くない」という認識が広まってしまったのだ。
危険運転致死傷罪が適用されるためには、正常な判断が出来ないと運転手自身が自覚していたことを立証する必要がある。事故を起こしたドライバーが、「ちゃんと正常な判断が出来ると思って運転してました」と証言すれば、それだけで適用されないのだ。そこで適用しようと思えば、第三者の証言が必要になる。例えば、「コンビニから千鳥足で出てくるところを見た」とか、「事故を起こす前に、フラフラ路側帯や中央線などをまたがって運転してたのとを見た」といった証言が。
しかも、ひき逃げの方が刑事罰としては軽い。危険運転致死罪に適用されるぐらいなら、その場から逃げてしまえと言うのだ。実際、先月3人の子供を死亡させた福岡市職員もそれである。同乗していた友人から大量の水を飲み、アルコール度数を下げようと工作した。あとからいくらでも危険運転致死傷罪から逃れる術が存在している。
福岡市職員の飲酒事故の煽りを受け、様々な市で飲酒運転事故を起こすだけで直ちに懲戒免職を取られるようになった。しかし今日のNHKのニュースによると、県や県庁所在地や政令指定都市の約4割で処分基準は不明なままらしい。決して誉められたものではない。しかし、これだけで飲酒事故が減るわけではない。飲酒運転するドライバーは、絶対に「自分が事故を起こす」と思って運転していない。みんな、検挙されることばかり懸念しても、「事故だけは起こさない」と思い込んでいる。過酷な労働環境を強いられているトラックドライバーに関しても通用する。事後的に対応しても遅すぎる。対応するときはいつも誰か犠牲になってからの話なのだ。
つまり、ドライバーが「飲んだら乗れない」「飲んだら乗りたくない」状況を作っていく必要があるのだ。
例えば、そのために自分の息を吹き込んで、アルコールが検出されなければ、エンジンが掛かるという車や鍵が開発されている。しかし、全ての車に実装されるまで何十年という時間が掛かる。誰が考えても即効性、現実性のある案ではない。もちろん、開発の有効性を否定しているわけではない。
そこでだ。車一台に必ず、ホームレスのオッサンを飼うことにしよう。ドライバーが飲酒をしたら、このオッサンが「ちょっと、アンサン待ちなはれ!ワシが運転しまっさ」とドライバーに注意喚起もし、運転も代行してくれる。というか、そもそもそんな車に誰も乗りたくない。そして、ホームレスの雇用問題も解消される。何と完璧な案だろう。我ながらほれぼれする。
昨今の行政批判は素晴らしいことである。京都市職員、特に環境局の犯罪は目に余るものがある。薬物やら何やら、正常な社会人が犯す犯罪ではない。ただ論点がずれている。自分の目にはそういう行政叩きの一環として、飲酒事故を利用しようとしているだけにしか映らない。いや、それが悪いと言っているのではない。しかし、その一環として飲酒事故を起こした公務員を批判をした場合、いずれすぐにでもまた違う公務員の犯罪・事件に焦点が移ってしまう。それでは、国民の飲酒事故に対する認識は何も変わらない。つまりは、陰惨な事故は防げないのである。
ここ数年減少傾向にあった飲酒運転の事故件数が一転増加傾向に転じている。飲酒運転の検挙件数も増えている。それは何故か。危険運転致死罪が新設された当初から、徐々に適用件数は減っていってるからだ。自分は酒に弱い体質なので、「新設されて良かったな」程度で、特に気にも留めてなかったが、ヘビードランカーはやはり気になるところである。危険運転致死傷罪が有名無実の法律とまでは言わないが、実際飲酒をしてても適用される可能性は低いと既に学習してしまったのだ。「飲酒運転=怖くない」という認識が広まってしまったのだ。
危険運転致死傷罪が適用されるためには、正常な判断が出来ないと運転手自身が自覚していたことを立証する必要がある。事故を起こしたドライバーが、「ちゃんと正常な判断が出来ると思って運転してました」と証言すれば、それだけで適用されないのだ。そこで適用しようと思えば、第三者の証言が必要になる。例えば、「コンビニから千鳥足で出てくるところを見た」とか、「事故を起こす前に、フラフラ路側帯や中央線などをまたがって運転してたのとを見た」といった証言が。
しかも、ひき逃げの方が刑事罰としては軽い。危険運転致死罪に適用されるぐらいなら、その場から逃げてしまえと言うのだ。実際、先月3人の子供を死亡させた福岡市職員もそれである。同乗していた友人から大量の水を飲み、アルコール度数を下げようと工作した。あとからいくらでも危険運転致死傷罪から逃れる術が存在している。
福岡市職員の飲酒事故の煽りを受け、様々な市で飲酒運転事故を起こすだけで直ちに懲戒免職を取られるようになった。しかし今日のNHKのニュースによると、県や県庁所在地や政令指定都市の約4割で処分基準は不明なままらしい。決して誉められたものではない。しかし、これだけで飲酒事故が減るわけではない。飲酒運転するドライバーは、絶対に「自分が事故を起こす」と思って運転していない。みんな、検挙されることばかり懸念しても、「事故だけは起こさない」と思い込んでいる。過酷な労働環境を強いられているトラックドライバーに関しても通用する。事後的に対応しても遅すぎる。対応するときはいつも誰か犠牲になってからの話なのだ。
つまり、ドライバーが「飲んだら乗れない」「飲んだら乗りたくない」状況を作っていく必要があるのだ。
例えば、そのために自分の息を吹き込んで、アルコールが検出されなければ、エンジンが掛かるという車や鍵が開発されている。しかし、全ての車に実装されるまで何十年という時間が掛かる。誰が考えても即効性、現実性のある案ではない。もちろん、開発の有効性を否定しているわけではない。
そこでだ。車一台に必ず、ホームレスのオッサンを飼うことにしよう。ドライバーが飲酒をしたら、このオッサンが「ちょっと、アンサン待ちなはれ!ワシが運転しまっさ」とドライバーに注意喚起もし、運転も代行してくれる。というか、そもそもそんな車に誰も乗りたくない。そして、ホームレスの雇用問題も解消される。何と完璧な案だろう。我ながらほれぼれする。
山口県・周南市の徳山高専で起きた事件の、19歳の男はやはり死んでいた。7日、山中で首と胴体が切り離された状態で発見された。司法解剖の結果によると、犯行直後間もなく首つり自殺を敢行したそうだ。
しかも、19歳の男は20歳の女をケータイで呼び出し、殺害したそうである。犯行直後に自殺するためのヒモを量販店で購入している。明らかに計画的な犯行だ。やはりである。自殺したのも計画的だ。自分を殺すために、20歳の女を殺害したのだ。20歳の女を殺害するために、自分を殺害したのだ。誰かを殺せるなら、確実に自分を殺せる。自分を殺せれば、確実に誰かを殺せる。最も確実な手段を選んだ。
そして、男は最も残虐な殺害の方法を選んだ。自分が死んでしまえば、何故、女が殺されたのかその動機が永遠に不明なままだからである。実際に殺害という手段を選んだ以上、何か動機はあるのだろう。しかし、その具体的な動機は誰も分からない。結局は憶測止まり、「かも知れない」止まりである。犯人がいない推理小説を延々と探偵ごっこで読み取ろうと必死にもがくのと同じである。思考を巡らせれば巡らせるほど、ラビリンスに陥るのだ。
20歳の女に思慕の念が募り募って、ストーカー的犯行で殺害したとかメディアでは囁かれている。桶川ストーカー殺人事件のと同じような動機なのか。実際、mixiで被害者の女が熊本大学に編入が決まったと報告した数日後の事件である。男は地元で就職する予定だったらしい。19歳の男が20歳の女と離れることを悲観しての犯行だと言うのだ。高専の修業年限は5年(or5年半)である。ちょうど今年が卒業の年なのだ。
もしくは幸せに恵まれた20歳の女に嫉妬しての犯行かも知れない。20歳の女は国立の熊本大学に無事合格し、編入することが確定した。20歳の女と19歳の男は同じ研究班で、課題が進んでいないことを心配していたらしい。余り男は出来が良い方ではなかったのかも知れない。その点、20歳の女は容姿も端麗で、学校の人気者で、勉強も良くできる。全くの正反対の人間とは言い過ぎだが、疎ましく思っていたのかも知れない。自分だけが恵まれていない。アイツだけが恵まれている。同じ班で過ごすに連れて、自分の将来に段々鬱屈的になっていったのかもしれない。
まあ動機は何であれ、人間、何か理由さえハッキリすれば、何とか納得できる。いや納得しなければ、精神的肉体的にもつらい。だから無意識的に、意識的に納得しようとするのだ。しかし理由がもやもやとハッキリしなければ、結論や結果を出すまで延々と考え続ける。常にそのことが頭に離れない。頭の中をゴロゴロと異物のように漂い続ける。
しかも、19歳の男は20歳の女をケータイで呼び出し、殺害したそうである。犯行直後に自殺するためのヒモを量販店で購入している。明らかに計画的な犯行だ。やはりである。自殺したのも計画的だ。自分を殺すために、20歳の女を殺害したのだ。20歳の女を殺害するために、自分を殺害したのだ。誰かを殺せるなら、確実に自分を殺せる。自分を殺せれば、確実に誰かを殺せる。最も確実な手段を選んだ。
そして、男は最も残虐な殺害の方法を選んだ。自分が死んでしまえば、何故、女が殺されたのかその動機が永遠に不明なままだからである。実際に殺害という手段を選んだ以上、何か動機はあるのだろう。しかし、その具体的な動機は誰も分からない。結局は憶測止まり、「かも知れない」止まりである。犯人がいない推理小説を延々と探偵ごっこで読み取ろうと必死にもがくのと同じである。思考を巡らせれば巡らせるほど、ラビリンスに陥るのだ。
20歳の女に思慕の念が募り募って、ストーカー的犯行で殺害したとかメディアでは囁かれている。桶川ストーカー殺人事件のと同じような動機なのか。実際、mixiで被害者の女が熊本大学に編入が決まったと報告した数日後の事件である。男は地元で就職する予定だったらしい。19歳の男が20歳の女と離れることを悲観しての犯行だと言うのだ。高専の修業年限は5年(or5年半)である。ちょうど今年が卒業の年なのだ。
もしくは幸せに恵まれた20歳の女に嫉妬しての犯行かも知れない。20歳の女は国立の熊本大学に無事合格し、編入することが確定した。20歳の女と19歳の男は同じ研究班で、課題が進んでいないことを心配していたらしい。余り男は出来が良い方ではなかったのかも知れない。その点、20歳の女は容姿も端麗で、学校の人気者で、勉強も良くできる。全くの正反対の人間とは言い過ぎだが、疎ましく思っていたのかも知れない。自分だけが恵まれていない。アイツだけが恵まれている。同じ班で過ごすに連れて、自分の将来に段々鬱屈的になっていったのかもしれない。
まあ動機は何であれ、人間、何か理由さえハッキリすれば、何とか納得できる。いや納得しなければ、精神的肉体的にもつらい。だから無意識的に、意識的に納得しようとするのだ。しかし理由がもやもやとハッキリしなければ、結論や結果を出すまで延々と考え続ける。常にそのことが頭に離れない。頭の中をゴロゴロと異物のように漂い続ける。
しかし、19歳の男は誰か一人と、自分一人が死ぬだけで、どれだけ多くの人間の脳みそを凌辱できたのだろう。しかも、ただの一時的な凌辱だけではなく、死ぬまで凌辱し続けるのである。どういう動機があったか知らないが、被害者が容姿端麗の才女でなければ、こんなにメディアも取り上げなかったであろう。また学校の同級生にあれほどの精神的苦痛も与えることもなかったであろう。もっとも効果的な被害者を選んだのだ。出来るだけ速やかな少ない行動で、多くの波紋を起こすことが出来た。行動が多ければ、自分が死ねない。
まあ今回はすぐ犯人が絞られ、かなり早い段階で指名手配された。警察に指名手配される前に、逮捕される前に、死んでしまえば、自分が被告となって裁判が断続的に開かれることがない。TVなどは一切取り上げないのだ。もう死んだのだから、特に情勢に何か変化があり得るはずがない。桶川ストーカー殺人事件の犯人である小松和人などは、全く今や顔写真や実名すら報道されない。いつも事件が取り上げられる度、報道されるのは被害者・猪野詩織の顔写真や名前ばかりである。小松和人の名前など、ましてや顔などいまや誰が覚えているだろう。
ましてや被害者と同じく死人なのだ。誰が胸を張って責められよう。刑も確定していない。社会の誰も其奴を糾弾してくれない。裁判所も死刑にしてくれない。既に容疑者は死んでいるから、自分が責めようにも責められない。誰も納得させてくれる区切りを与えてくれない。さらに脳みそが凌辱される。
よく好きな女に振り向いて欲しくて、その女の前で、自分を殺す男がいる。しかしながら、これは以ての外だ。何故なら、その女にとって自分はどうでも良い存在だからだ。どうでも良い存在だから、その女と付き合えない、手もつなげない、キスも出来ない、SEXもできない、ましてや楽しくお喋りすることすら出来ないのだ。血縁関係もない、ただの赤の他人だ。何年かしたら、いや、何年もしないうちに、お前のことは忘れ去り、他の男と付き合い、キスもし、SEXもし、子供も孕み、幸せな生活を築くのだ。目の前で自分で殺してあげたのに、すっかり自分のことなど忘却の彼方だ。具体的に何を彼女に与えることが出来て、彼女の何を具体的に奪えるというのだろうか?
昔、学校の同級生が大学受験の失敗を苦に、電車に飛び込んで自殺した。国公立大学の前期試験の日を選んだのは、彼なりの社会に対するささやかな復讐からだったのだろう。しかし、彼は死んで何を得たのだろう。ましてや、何も奪えてやしない。ただの無駄死に・犬死にであったと、彼の両親には悪いがそう断言せざるを得ない。
自分も交通事故で一度に死にかけたことがあるが、その時は何の痛みもなく怪我を負った。矛楯しているようだが、車に轢かれる数秒前から意識が飛ぶ。周り全ての風景が溶けたように、スローモーションになる。意識が戻ったときには、道路に横たわっていた。気付いたときには、足がズタボロになっていた。多分、これがダンプカーや大型トラックなら、即死だったろう。何の苦痛もなくあの世に逝っていたに違いない。ましてや電車だったら(ry。お勧めできる。病死や拷問死などと違って、痛みもなく死ねるのだ。彼も楽にあの世に逝ったに違いない。
殺害された彼女に対してはお悔やみを申し上げる。ただ、彼は最高の死を選んだのだと思う。警察官に逮捕・検察官に起訴される前に、死を選べば、社会が誰も糾弾しない状況が生まれる。絶対的強者となれるのだ。その強者を糾弾するためには、自分も誰かを殺して、死ぬしかない。
死ぬだけなら誰でも出来る。しかも、いとも容易く出来る。
人間なら誰もが、犬死には勘弁である。
自分の死には何か意味を持たせたい。
自分が出来る最後の最後の最後の行動なのだから…
まあ今回はすぐ犯人が絞られ、かなり早い段階で指名手配された。警察に指名手配される前に、逮捕される前に、死んでしまえば、自分が被告となって裁判が断続的に開かれることがない。TVなどは一切取り上げないのだ。もう死んだのだから、特に情勢に何か変化があり得るはずがない。桶川ストーカー殺人事件の犯人である小松和人などは、全く今や顔写真や実名すら報道されない。いつも事件が取り上げられる度、報道されるのは被害者・猪野詩織の顔写真や名前ばかりである。小松和人の名前など、ましてや顔などいまや誰が覚えているだろう。
ましてや被害者と同じく死人なのだ。誰が胸を張って責められよう。刑も確定していない。社会の誰も其奴を糾弾してくれない。裁判所も死刑にしてくれない。既に容疑者は死んでいるから、自分が責めようにも責められない。誰も納得させてくれる区切りを与えてくれない。さらに脳みそが凌辱される。
よく好きな女に振り向いて欲しくて、その女の前で、自分を殺す男がいる。しかしながら、これは以ての外だ。何故なら、その女にとって自分はどうでも良い存在だからだ。どうでも良い存在だから、その女と付き合えない、手もつなげない、キスも出来ない、SEXもできない、ましてや楽しくお喋りすることすら出来ないのだ。血縁関係もない、ただの赤の他人だ。何年かしたら、いや、何年もしないうちに、お前のことは忘れ去り、他の男と付き合い、キスもし、SEXもし、子供も孕み、幸せな生活を築くのだ。目の前で自分で殺してあげたのに、すっかり自分のことなど忘却の彼方だ。具体的に何を彼女に与えることが出来て、彼女の何を具体的に奪えるというのだろうか?
昔、学校の同級生が大学受験の失敗を苦に、電車に飛び込んで自殺した。国公立大学の前期試験の日を選んだのは、彼なりの社会に対するささやかな復讐からだったのだろう。しかし、彼は死んで何を得たのだろう。ましてや、何も奪えてやしない。ただの無駄死に・犬死にであったと、彼の両親には悪いがそう断言せざるを得ない。
自分も交通事故で一度に死にかけたことがあるが、その時は何の痛みもなく怪我を負った。矛楯しているようだが、車に轢かれる数秒前から意識が飛ぶ。周り全ての風景が溶けたように、スローモーションになる。意識が戻ったときには、道路に横たわっていた。気付いたときには、足がズタボロになっていた。多分、これがダンプカーや大型トラックなら、即死だったろう。何の苦痛もなくあの世に逝っていたに違いない。ましてや電車だったら(ry。お勧めできる。病死や拷問死などと違って、痛みもなく死ねるのだ。彼も楽にあの世に逝ったに違いない。
殺害された彼女に対してはお悔やみを申し上げる。ただ、彼は最高の死を選んだのだと思う。警察官に逮捕・検察官に起訴される前に、死を選べば、社会が誰も糾弾しない状況が生まれる。絶対的強者となれるのだ。その強者を糾弾するためには、自分も誰かを殺して、死ぬしかない。
死ぬだけなら誰でも出来る。しかも、いとも容易く出来る。
人間なら誰もが、犬死には勘弁である。
自分の死には何か意味を持たせたい。
自分が出来る最後の最後の最後の行動なのだから…
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