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『格差』と『貧困』と『不平等』を広げる自民党・創価学会・経団連を抹殺せよヽ(´∀`)9 ビシ!!  これでは、日本のお先は真っ暗(*∀*)YO!!
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11月12日、北九州市で小学五年生2人が同級生に対して、13万円以上も現金を恐喝していた事件を、教育委員会には「金銭トラブル」としか報せていなかった問題で、その学校の校長が首つり自殺をした。メディアはここぞとばかりに非難した。また大阪では中学一年生の女の子も飛び降り自殺をした。この背景にもイジメがあったのではないかと言われている。同級生のおマンコが「チビチビなどとしつこく言い寄られていた」などとTVカメラの前で話していた。また埼玉では中三の男子が同じく同級生に対して恐喝をされていて、自殺している。

しかしながら、メディアは非難する方向が間違っている。同級生を恐喝していたその小学五年生を非難すべきであろう。現場の教師や学校に何の権限や能力も与えられていないのだ。まるで教師がまともに対応していれば、小五の女の子は自殺していなかったかの口ぶりである。驚きである。教育委員会に報告していれば、その恐喝をしていた小五を罰すること、学校から強制的に退学させることが出来たのであろうか。注意こそできても、その3人は来年までずっと同じ教室に閉じこめられるのである。今月、同級生を虐めていた中学生が逮捕されたりもしたが、教師の範疇を遙かに超えて、警察が介入すべき事案まで解決しろとは、少し逸脱している。

教師から権限や権力や裁量を奪うだけ奪っておきながら、問題解決を何故しなかったんだと批判するのは虫がよすぎるのだ。教師にはその小学五年生のおにゃのこを逮捕する権限はない。また恐喝をした償いとして、何週間、何ヶ月と停学させることもできない。イジメを働いていた生徒に対して「制裁」を加えてしまえば、体罰だとして教師が逆に「制裁」が加えられてしまう。つまり、教師には何の権限も与えられていないということだ。教師はいつの間にか、弱者の立場に追いやられてしまったようだ。

つい先日も、不登校の女の子を学校に出てこさせようとした教師がいたが、その女の子が発狂して、自分の太ももかどこかに鉛筆か何かを突き刺して、教師の方が問題視された。鬱や精神的に参っている子供とかにまで対処しろとは、さすがに教師が哀れになってくる。明らかに精神科医が出て行くべき範疇であろう。そういう生徒に対して、教師が全く関わらなくて良いとは思わないが、教師の専門外であることは誰の目からも明らかだ。せいぜい教室で暖かく出迎えてやれる程度であろう。

こういう刑事事件や専門外の子供に対して、何の権限も与えられていない学校・教師側がどう対処すればいいのか、是非とも教えて欲しい。また具体的、かつ効果的な再発防止策を取ることが出来るというのだろうか。

+ + + + +


例えば、イジメに対して文科省なりが明確な有効打を考え出していて、教師全員が担任になるに当たって、授業を受け持つに当たって、イジメなどの問題解決に当たって必要な画一的な職業訓練すら受けていれば別である。何故、そういう職業訓練を受けた専門家が、ちゃんと仕事を全うしなかったのだという具合に、そういう誹りは受けても仕方がない。

ただイジメに対して明確な有効打を、日本では確立されていないし、まだ全然研究も為されていない。イジメ防止の一助となりうるようなマニュアルがないにも関わらず、社会や文科省なりは一教師や一校長にその全てを押しつけている。

ましてや、何の権限すら与えてられていない。警官ですら、凶悪犯が増え続けていれば、銃の使用規制が緩和されている。自分は最近警官自身のみの安全守る以外でも銃使用されているため、それには強く反対だが、少なくとも教師にもそういう武器使用を認めてあげることも必要ではないかと思う。

世間や社会は何の努力もせず、教師に対して何の裁量も余地も与えず、ただ結果だけを求めても、宝くじを数枚しか購入していないのに、一等2億円を当てようと本気で狙っているようなものだ。無責任というか、只の馬鹿なのか、いつまでも夢を諦められないドリーマーなのか。だとしたら、成果なんて求めることはしない方が賢明だ。

現場を雁字搦(がんじがら)めに縛っておきながら、現場に早く解決しろと催促し、焦らせておきながら、非常識と思われるような高いハードルを求める。これでは不測の事態が起きてしまっても、社会は教師に対して、あれこれと注文を付けすぎている。その結果、教師や校長は「見て見ぬ振り」をするという選択を選んだ。そして現在の所、その選択が一番無難なのだ。誰がそれを強く責められるのか。

口で説明して、何も理解せず、暴れるような生徒に対して、教師は一体どういう行動を取ればいいのか。ましてや、何の権限や裁量も与えられないどころか、あれは駄目、これも駄目という具合に、どんどんと自らが考え、試していこうとする方法論が限定されていき、仕舞いには教師を雁字搦めに縛り上げられてしまう。そういう状況に陥った教師に対して、保護者や世間はまだ執拗に問題解決を催促するのだ。それだけではなく、そういう状況で無理矢理問題を解決しようとしても、その姿勢は全く評価されないどころか、結果的に失敗すれば世間からは強烈な誹りを受ける。

子供を何とかして叱られないような方向に持っていきたいだけなのか、ただ教師に対して何が何でも叩かれるべき公僕であると再認識させたいだけなのか、良く分からない。前者だとしても、子供の教育に対して、教師に対して全幅の責任を押しつけている。「朝の挨拶が出来ないのは教師のせいだ」と宣う親御さんもいるらしい。後者だとしても今の説明に辻褄が行かなくなる。

やはり自殺を決行した校長らが選んだ「何もしない」という選択は、決して間違っていなかったようだ。そう思えて仕方がない。


学校の隠蔽体質は生まれるべくして生まれた。権限も何も与えられていないのだから、教師は校長に伝えず、校長は教育委員会に伝えず、教育委員会は文科省に伝えずという具合に、責任が擦り付けられ合うのは必定の理。

教師は生徒に対して文句すら言えず、校長は教師の人事権も与えられておらず、教育委員会は文科省から予算という心臓を握られている。権限や裁量すら与えられていないのだ。それで結果的に、学校内で不祥事や不測の事態が起きて、その責任を取らされるのでは堪ったものではない。ましてや、文科省はそういう下の不正(必修科目未履修問題、いじめ問題etc)を知っていながら、見て見ぬ振り。保護者は保護者で、受験に関しては予備校や塾に依存する。だから、どうでもいいような雑用を学校に依存する。「これぐらいやっていただいて当たり前だろう」という具合に。

既に日本の教育はありとあらゆる場面で、何かもが「形骸化」してしまっている。何も教育委員会だけではない。正直言って、日本の教育は救いようがない。


その前日の11月11日に、フジテレビで生放送6時間ぶっ通しでビート問題が教育に関する番組をやっていた。内容的には駄作だった。まともに見れたのは最初の2時間程度。あの程度で、司会の三人には5000万円ぐらいギャラが(ry。それを考えると、殺意すら芽生えてくるね☆(ゝω・)

最初の2時間には、教師の苦悩が放送されていた。

生徒を出席させるために、わざわざ朝早くモーニングコールして、起こしてやっている中学校の教師がいるようだ。また朝早くわざわざ生徒の家まで行ってる教師もいるらしい。何でも出席日数が足りないと、卒業が出来ないとかどうだとかで、そういうホテルの従業員のような仕事をしてでも出席させなければいけないらしい。母親は何をしているかというと、「私が起こすよりも、先生が起こしてくださる方が息子が確実に言うことを聞くので」らしい。

また学級崩壊が起きるまでをドキュメンタリー仕立てのドラマも放送されていた。教師にはクラスが騒いでも、生徒を黙らせる術や権限がない。生徒が暴れても、無理矢理抑えつけることは出来ないし、トイレへ行きたいと言えば、それを制止する権限もない。生徒がワガママを言えば、無条件で教師はそれを受け入れざるを得ない。

こういう光景を擬似的に見せつけられたら、校長が教育委員会へ報告したがらないのも頷ける。これでその教師が「駄目教師」というレッテルを貼られてしまっては、あまりにも哀れである。


以上を見てくると、そもそも教師の仕事は実に曖昧模糊としていて、その範疇も定かではない。生徒をどういう状態にまで成長させれば、それが成功であると評価されるのか、その基準もない。何のために、何十人という生徒を前にして授業をするのか、すべきなのか、その必然性や必要性が分からなくなる。五里霧中。進学校や塾・予備校であれば、単純に生徒を高校・大学合格させればいい。それがゴールであることは、生徒にとっても教師・講師にとっても明白であり、そこに向かって、お互いが仲良く手を取り合って、励まして、走ることは簡単だ。そして、その目的の成果を出すことも決して難しくはない。ただひたすらに、がむしゃらに走ればいい。また生徒自身が嫌になり諦めてしまえば、容易に棄権させることも出来る。教師の方も「あーそうか」という具合に、その意思を尊重するという名目で、簡単に見放すことが出来る。

ただ普通の学校であれば、生徒がそのレースを棄権することは許されない。教師側は必死にそのレースに戻らそうと懸命にならざるを得ない。また何のためにそのレースを走っているのか、明確な目的がお互いに存在していない。生徒が早くゴールに辿り着こうが、遅くゴールに辿り着こうが、その生徒自身は何の評価も受けないし、それを先導していた教師も何の評価も受けない。また結果的にゴールに行き着けなかったとしても、何の批判もされずに、そのレースは終わってしまう。とにかく時間が過ぎるまで待てばいい。ゴールすること自体も目的ではない。

教師も生徒も、何のためにレースに参加するのか、またしなければいけないのか、その意義を見出せないのである。だから、誰も参加もしたがらないし、真剣にも走らなくなる。

教員免許更新制度だかを、安部晋三が取り入れようと躍起になっているが、ただ教師に対して、問題解決に当たって何の権限も与えていない中、また明確に教師の良し悪しを判断できる基準がないにも関わらず、教師の首を切ることだけに勤しんでいるようにしか見えない。ハッキリ言って、これからまともな教師になろうと思う若い世代は間違いなく減り続けるだろう。日本は超少子化だから、教師も減っていいのだという詭弁は通用しない。

その更新制度を一概に全てを批判するつもりはないが、現場にもっと権限や裁量を与えてやってから、そういう議論は始めるべきだろう。アメリカでは「ゼロ・トレランス」という制度があるらしい。直訳すれば「寛容さゼロ」。生徒のワガママは一切許しませんよと言うこと。口答えすればマイナス何点と、具体的に決められていて、何点か貯まれば、強制的に矯正施設みたいな所へ入れられる。

日本でも暴れたり、教師の言うことを聞かなかったり、イジメをしているような生徒に対しては、強制的に教室から追い出せる権限や、また矯正施設で別に教育させる措置を取れるようにすべきである。これを与えることによって、「生徒を教育させる」という詭弁に充ち満ちた体罰も減らせることも出来る。教師にこういう力がないのに、どうやってイジメなどの諸問題に対応できるか是非とも保護者なり教育関係者なりは再考すべきであろう。

また医者にだって研修医制度なるものが存在している。教師にも教壇へ立つ前に、研修師みたいな制度を導入しても良いかもしれない。

こういう検討もなしに、更新制度を導入したところで、教師のなり手がますます減るだけである。何故なら、「教師」は勝手に育つもんだろうと思い込んでいる。政府は「生徒」を育てることだけに目が眩んで、肝心の「教師」を育てることを全く怠っている。それで結果的に育たなければ、首ですよ…とは少し無責任である。大層な首切り制度を導入するなら、その以前の段階でもっとやるべきことはたくさんある。安部晋三なり、教育再生会議は「生徒」だけしか見えていない。
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