『格差』と『貧困』と『不平等』を広げる自民党・創価学会・経団連を抹殺せよヽ(´∀`)9 ビシ!! これでは、日本のお先は真っ暗(*∀*)YO!!
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昨日のNHKの「クローズアップ現代」で『Web2.0時代』のことが取り上げられていた。司会はいつものババアではなく、あの畠山。さぞ実況民は喜びはしゃいだことと思う。思わず自分も机をガタンと言わせ、飛び跳ねてしまうところであった。
そもそも『Web2.0時代』とは何だろう?と疑問に思う人も多いのではなかろうか。ネットは勉強せずとも扱える。ただ見たいサイトをクリックすれば良いだけだ。小学生から老人まで、誰にでも扱える。いつの間にかネットが家庭内、学校内、会社内に浸透し、知らず知らず内に使っていた人も多いかと思う。そんな状況で、あえてネットについて勉強しようと思う人など極めて少ない。番組内で既に説明されていたが、せっかくなので自分が説明させていただく。
『Web2.0時代』というぐらいだから、その前に『Web1.0時代』みたいなものがあったんだろうな、そんで、そこから何かバージョンアップしたんだろうなということぐらいは、感の良い人は気付いてくれると思う。実際『Web1.0時代』と呼ばれる時代があった。予想できていた方は、見事正解である。おめでとう。
簡単に説明すると、「Web1.0時代」の主な情報発信者は「企業」や「ある種の団体」で、その発信基地として主にHTMLやCGIなどを使用した「サイト」が使用されていた時代のことで、『Web2.0時代』の主な情報発信者は「ネットユーザー」であり、発信基地も「ブログ」など自由性が高いものに変貌している。
じゃあ、「Web1.0」の時代から『Web2.0』の時代に移行し、根本的に何が変わったのか? 一言で片付けるなら、ネットユーザーが『情報の受け手側』から『情報の発信側』に変化したことだ。ネットをする目的が「どんな情報をどうやって集めるか」から、「どんな情報をどうやって発信していくか」に変わりつつあるのだ。
まだなかなか実感を得にくいという人は、先日も書いたがネット辞書「Wikipedia」を思い浮かべていただけると少しは実感が湧くのではなかろうか。ユーザー自身が自分のなるたけの知識を加筆・編集し、また他のユーザーがまたそれを編集する。
また「一億総ブログ」という言葉も一度ぐらいは耳にされたことがあると思う。ある問題提起に対してそれが輪のように広がり、ついには政治まで動かすことだってできるのだ。「人権擁護法案」などが好例である。携帯の写メールの画質や動画保存機能の向上が果たした役割も大きい。芸能人や有名人が自らの日常を発信する上で、非常に役立っている。それと一番分かりやすいが、余り適切ではない例として「犯罪被害者がブログをやっていた」ことがある。よくTVニュースで被害者の顔写真と、日常を綴ったブログの文章が並べて報道される。近々では何とか高専の美人が記憶に新しい。「熊本大学に無事編入することが出来ましたヘ(^o^)/」などと、陰惨な事件と意図的に対比させるように、メディアがその女のプライベートな部分を晒している。当然、これが正当な行為であるかは議論な余地が残されている…。
まあ取り敢えず、これは今までAVを視聴するだけの童貞が、今度はAVに出演して、実際に女優とセックスをする男優側、もしくは女優と男優に「あれをやれ、これをやれ」と指示する監督側になるぐらいの大きな変化なのだ。いかに素晴らしい時代の幕開けか、その時代に生きているかを男性諸君なら実感を持って理解してくれたと思う。
NHKによると、それに伴い企業側もユーザー偏重とも言っても遜色ないぐらいに、ユーザー主体に変化してきているらしい。amazonはどんなに売れないマニアックな本でも扱うようになり、売れないミュージシャンの曲を数千曲扱うサイトが出てきているらしい。mixiでは、ある洋楽映画を上映させようと運動をしたことで、実際にその映画が上映されたこともある。ユーザーが歩んできた道を企業側がその跡を辿って付いてきているのだ。
また「オープンソース」と呼ばれる複数の開発者で制作するソフトウェアの開発も盛んになってきている。その好例としてFirefoxが挙げられるが、これについては今度詳しく書きたいと思う。例えば、ネット上であるソフトウェア開発者がβ版などを公開し、ユーザーからの不具合や要望をなどを取り入れて、完成度の高いソフトウェアへ仕上げていくことも『Web2.0時代』の典型らしい。
ネット社会を先導しつつある、現に先導しているのは我々ユーザーであるのだ。我々ユーザーの活躍が世界を牽引するのだ(多分)。ユーザー主体でなされたこと全てが、『Web2.0時代』に属する時代が来た。これからもますます新しいことが増え続け、それらもまた『Web2.0』と呼ばれるに違いない。
しかしながら、様々なことについて長々と述べてきたが、ここであるサイトが思いつかないだろうか?「Web1.0時代」から、ずっと『Web2.0時代』的な役割を果たし続けていたあの巨大な、巨大なだけが取り柄の。そうあの『2ちゃんねる』だ。
今から思い返してみると、「Web1.0時代」から『Web2.0時代』の先駆け的存在だったのだ。何の登録も必要がない、誰でも書き込める匿名性は、昔から随分と批判があった。しかしながら、それがネットの将来像を描き、ネットの新しい時代を牽引してきた。それがやっと証明された形となる。2ちゃんねるが『Web2.0時代』に果たした役割はかなり大きく、それを蔑ろにすることは決して不可能なのだ。『Web2.0時代』を築き上げていった人間達は、『2ちゃんねる』出身の申し子と言っても支障がない連中が多いのではないかと思う。
しかし、昨日のNHKでは『Web2.0』の先駆け的存在である『2ちゃんねる』が全く取り上げられていなかったのは実に不自然であった。と同時に不愉快であった。NHKはまだまだ信用できないTV局である。
誰でも様々な情報を発信するために、重要なのは『自由さ』である。魚が自由に泳ぎ回るには「水」が必要なように、それがなければネットユーザーも自由自在に活動することは不可能だ。ひいては、Web2.0時代を左右する。つまり、根源的には『無料』ということだ。また「誰でも簡単にできる」という『利便性』『簡便性』も必要である。『2ちゃんねる』などを見ても分かることだ。
先月26日の朝日新聞などで、総務省が「ネット上嘘発見器」を開発に乗り出していることが報道された。明らかに、「Web1.0時代」に逆戻りする政策であることは明白であろう。これに3億円もの開発金を拠出しようとしているのだから、開いた口がふさがらない。聞き捨てならない注視すべきニュースである。生き生きと泳いでいる魚の「水」を抜き去って、その魚をじわじわと嬲り殺そうとしているからである。
そもそも『Web2.0時代』とは何だろう?と疑問に思う人も多いのではなかろうか。ネットは勉強せずとも扱える。ただ見たいサイトをクリックすれば良いだけだ。小学生から老人まで、誰にでも扱える。いつの間にかネットが家庭内、学校内、会社内に浸透し、知らず知らず内に使っていた人も多いかと思う。そんな状況で、あえてネットについて勉強しようと思う人など極めて少ない。番組内で既に説明されていたが、せっかくなので自分が説明させていただく。
『Web2.0時代』というぐらいだから、その前に『Web1.0時代』みたいなものがあったんだろうな、そんで、そこから何かバージョンアップしたんだろうなということぐらいは、感の良い人は気付いてくれると思う。実際『Web1.0時代』と呼ばれる時代があった。予想できていた方は、見事正解である。おめでとう。
簡単に説明すると、「Web1.0時代」の主な情報発信者は「企業」や「ある種の団体」で、その発信基地として主にHTMLやCGIなどを使用した「サイト」が使用されていた時代のことで、『Web2.0時代』の主な情報発信者は「ネットユーザー」であり、発信基地も「ブログ」など自由性が高いものに変貌している。
じゃあ、「Web1.0」の時代から『Web2.0』の時代に移行し、根本的に何が変わったのか? 一言で片付けるなら、ネットユーザーが『情報の受け手側』から『情報の発信側』に変化したことだ。ネットをする目的が「どんな情報をどうやって集めるか」から、「どんな情報をどうやって発信していくか」に変わりつつあるのだ。
まだなかなか実感を得にくいという人は、先日も書いたがネット辞書「Wikipedia」を思い浮かべていただけると少しは実感が湧くのではなかろうか。ユーザー自身が自分のなるたけの知識を加筆・編集し、また他のユーザーがまたそれを編集する。
また「一億総ブログ」という言葉も一度ぐらいは耳にされたことがあると思う。ある問題提起に対してそれが輪のように広がり、ついには政治まで動かすことだってできるのだ。「人権擁護法案」などが好例である。携帯の写メールの画質や動画保存機能の向上が果たした役割も大きい。芸能人や有名人が自らの日常を発信する上で、非常に役立っている。それと一番分かりやすいが、余り適切ではない例として「犯罪被害者がブログをやっていた」ことがある。よくTVニュースで被害者の顔写真と、日常を綴ったブログの文章が並べて報道される。近々では何とか高専の美人が記憶に新しい。「熊本大学に無事編入することが出来ましたヘ(^o^)/」などと、陰惨な事件と意図的に対比させるように、メディアがその女のプライベートな部分を晒している。当然、これが正当な行為であるかは議論な余地が残されている…。
まあ取り敢えず、これは今までAVを視聴するだけの童貞が、今度はAVに出演して、実際に女優とセックスをする男優側、もしくは女優と男優に「あれをやれ、これをやれ」と指示する監督側になるぐらいの大きな変化なのだ。いかに素晴らしい時代の幕開けか、その時代に生きているかを男性諸君なら実感を持って理解してくれたと思う。
NHKによると、それに伴い企業側もユーザー偏重とも言っても遜色ないぐらいに、ユーザー主体に変化してきているらしい。amazonはどんなに売れないマニアックな本でも扱うようになり、売れないミュージシャンの曲を数千曲扱うサイトが出てきているらしい。mixiでは、ある洋楽映画を上映させようと運動をしたことで、実際にその映画が上映されたこともある。ユーザーが歩んできた道を企業側がその跡を辿って付いてきているのだ。
また「オープンソース」と呼ばれる複数の開発者で制作するソフトウェアの開発も盛んになってきている。その好例としてFirefoxが挙げられるが、これについては今度詳しく書きたいと思う。例えば、ネット上であるソフトウェア開発者がβ版などを公開し、ユーザーからの不具合や要望をなどを取り入れて、完成度の高いソフトウェアへ仕上げていくことも『Web2.0時代』の典型らしい。
ネット社会を先導しつつある、現に先導しているのは我々ユーザーであるのだ。我々ユーザーの活躍が世界を牽引するのだ(多分)。ユーザー主体でなされたこと全てが、『Web2.0時代』に属する時代が来た。これからもますます新しいことが増え続け、それらもまた『Web2.0』と呼ばれるに違いない。
しかしながら、様々なことについて長々と述べてきたが、ここであるサイトが思いつかないだろうか?「Web1.0時代」から、ずっと『Web2.0時代』的な役割を果たし続けていたあの巨大な、巨大なだけが取り柄の。そうあの『2ちゃんねる』だ。
今から思い返してみると、「Web1.0時代」から『Web2.0時代』の先駆け的存在だったのだ。何の登録も必要がない、誰でも書き込める匿名性は、昔から随分と批判があった。しかしながら、それがネットの将来像を描き、ネットの新しい時代を牽引してきた。それがやっと証明された形となる。2ちゃんねるが『Web2.0時代』に果たした役割はかなり大きく、それを蔑ろにすることは決して不可能なのだ。『Web2.0時代』を築き上げていった人間達は、『2ちゃんねる』出身の申し子と言っても支障がない連中が多いのではないかと思う。
しかし、昨日のNHKでは『Web2.0』の先駆け的存在である『2ちゃんねる』が全く取り上げられていなかったのは実に不自然であった。と同時に不愉快であった。NHKはまだまだ信用できないTV局である。
誰でも様々な情報を発信するために、重要なのは『自由さ』である。魚が自由に泳ぎ回るには「水」が必要なように、それがなければネットユーザーも自由自在に活動することは不可能だ。ひいては、Web2.0時代を左右する。つまり、根源的には『無料』ということだ。また「誰でも簡単にできる」という『利便性』『簡便性』も必要である。『2ちゃんねる』などを見ても分かることだ。
先月26日の朝日新聞などで、総務省が「ネット上嘘発見器」を開発に乗り出していることが報道された。明らかに、「Web1.0時代」に逆戻りする政策であることは明白であろう。これに3億円もの開発金を拠出しようとしているのだから、開いた口がふさがらない。聞き捨てならない注視すべきニュースである。生き生きと泳いでいる魚の「水」を抜き去って、その魚をじわじわと嬲り殺そうとしているからである。
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奇しくも、放送当日はWinny開発者の金子の裁判の審理が終了した日でもあった。ブタエモンのニュースで霞んでしまった感が極めて強いのが残念で仕方ない。コレには何かNHKの意図的な配慮でもあったのか、運命的な因果でも隠されていたかは分からないが、この裁判が今後の『Web2.0時代』が前に行くのか、後ろに行くのか、右に行くのか、左に行くのか、上に行くのか、下に行くのか、全てを左右する重要な裁判であるからである。
『ファイル共有ソフト』も『Web2.0時代』には欠かせない存在だからだ。ましてや、Winnyは『2ちゃんねる』で公開し、そこからある程度、完成度の高いソフトまで成長したソフトである。WinMXやBitTorrentと違い、開発過程から既に『Web2.0時代』だったファイル共有ソフトはWinnyだけである。もはや「申し子」と言っても過言ではない。Shareの作者は『2ちゃんねる』に光臨していないので、純粋に「申し子」とまで呼べるかは少し疑問が残る。
何故、欠かせないのか。まずは『ファイル共有』という概念を理解する必要がある。Aという「ファイル」をBという「ユーザー」に渡したい場合、どうすればいいかを考えよう。Bという「ユーザー」に、Aという「ファイル」を保存したメディアを直接手渡すというのはなしである。アップローダーなどを使ってみよう。そのサーバーにAという「ファイル」をアップロードする。そして、Bという「ユーザー」がそのアップローダーにアクセスして、そのAという「ファイル」をダウンロードしてやっと初めて手に渡るのだ。メールを使った場合も大体同じである。
しかしこれは少し面倒くさい。何かを介さなければ、相手に自分が伝えたい情報を伝えられないのだ。キーボードを打っていても非常に疲れたぐらいだ。何故、あるファイル(旅行先で撮影した写真画像etc)を直接相手に手渡しすることができないのだろう。それができればどれだけ楽で、便利であろうと、誰もが思うはずである。
それを可能にするのが『ファイル共有』というシステムなのだ。
自分のパソコンから、Bのパソコンに直接ファイルを送れるのだ。ただし、自分もBも同じ『ファイル共有ソフト』を起動させていなければいけないが。しかも特定の相手だけではなく、不特定のユーザーに対してもそのファイルを送ることが出来る。それだけでなく、サーバーであればそこが駄目になってしまえば全てのユーザーに情報が行き渡らなくなるが、数珠繋ぎのように情報を介すのでどこか一つが駄目になってしまっても、情報の共有ができるのだ。それを可能にしたのがファイル共有ソフト「Winny」なのだ。そして、それを開発したのが金子なのだ。その金子を逮捕してしまったのが、京都府警なのである。ここで注意しておきたい。ファイル共有ソフトはWinnyだけではない。「Share」や「BitTorrent」や「WinMX」など、あまたに存在している。これについては時間があれば詳しく書きたい。
で、いかに重要な裁判であるか理解してくれたと思う。この裁判の判決によっては、ネットで公開して、様々なユーザーの意見を取り込み、それを反映させるという『Web2.0時代』的ソフトウェア開発に大きな歯止めが食らうのだ。それで結果的に、不利益を被るのは私たちユーザー自身である。今後のオープンソースなどの、ソフトウェア開発全般に与える影響は大きい。ましてや、その『ファイル共有』という行為自体が違法であるという含みを残すことにもなる。
つまり金子が敗訴するようなことがあれば、「Web1.0時代」に逆戻りするどころか、「Web0.0」のネット原始時代に戻るようなものなのだ。ネットが死に絶えるかもしれない大事件なのだ。
ごめんなさい、金子がどういう罪名で京都府警に逮捕されたのかを言い忘れていた。逮捕されてから数年も経つので、すっかり忘れてる人や、そもそも全く知らない人も少なくないのではないかと思う。多分、驚かれるかも知れない。
では言う。金子は「著作権侵害幇助」の罪で逮捕されたのだ。日々繰り返されているファイル交換による著作権侵害を幇助しているソフトを制作したという罪で逮捕されたのだ。これを最近の事件で言い換えてみる。先月福岡市職員が飲酒運転で子供3人が乗車した車に追突し、死亡させた事件があった。警察はこの福岡市職員を逮捕するのではなく、職員が乗っていた車のメーカーと、職員の判断を鈍らせた酒を造った酒メーカーの責任者を逮捕しているようなものなのだ。「飲酒事故を幇助した」からという理由で…。逮捕当初、2ちゃんねるでも相当議論が紛糾し、京都府警も糾弾された。
いかに金子が滅茶苦茶な理由で逮捕されたのか、もう国家賠償請求ものの大珍事である。ましてや金子は検察から懲役一年を求刑されている。この刑が確定するような自体が起きれば、日本の「司法」も根幹から問われなければいけない事態に陥るであろう。
とにかく『ファイル共有ソフト』がいかに便利なソフトが理解してくれたと思う。
日本は特に高速回線が発達しているので、なおさらその『利便性』は格段に増す。
誰でも、いつでも、どこでも、どんな情報でも発信すること、受信することができうるのだ。
絶えず、情報がせき止めることなく交流できるのだ。
「Web1.0時代」のように情報が死ぬ(情報を得られない)ということがないのだ。
誰もが分け隔てなく享受できるという『情報の分散性』を飛躍させる上で欠かせないツールなのだ。
ネットユーザー本位の『Web2.0時代』の主役になりうるであろう。
『ファイル共有ソフト』も『Web2.0時代』には欠かせない存在だからだ。ましてや、Winnyは『2ちゃんねる』で公開し、そこからある程度、完成度の高いソフトまで成長したソフトである。WinMXやBitTorrentと違い、開発過程から既に『Web2.0時代』だったファイル共有ソフトはWinnyだけである。もはや「申し子」と言っても過言ではない。Shareの作者は『2ちゃんねる』に光臨していないので、純粋に「申し子」とまで呼べるかは少し疑問が残る。
何故、欠かせないのか。まずは『ファイル共有』という概念を理解する必要がある。Aという「ファイル」をBという「ユーザー」に渡したい場合、どうすればいいかを考えよう。Bという「ユーザー」に、Aという「ファイル」を保存したメディアを直接手渡すというのはなしである。アップローダーなどを使ってみよう。そのサーバーにAという「ファイル」をアップロードする。そして、Bという「ユーザー」がそのアップローダーにアクセスして、そのAという「ファイル」をダウンロードしてやっと初めて手に渡るのだ。メールを使った場合も大体同じである。
しかしこれは少し面倒くさい。何かを介さなければ、相手に自分が伝えたい情報を伝えられないのだ。キーボードを打っていても非常に疲れたぐらいだ。何故、あるファイル(旅行先で撮影した写真画像etc)を直接相手に手渡しすることができないのだろう。それができればどれだけ楽で、便利であろうと、誰もが思うはずである。
それを可能にするのが『ファイル共有』というシステムなのだ。
自分のパソコンから、Bのパソコンに直接ファイルを送れるのだ。ただし、自分もBも同じ『ファイル共有ソフト』を起動させていなければいけないが。しかも特定の相手だけではなく、不特定のユーザーに対してもそのファイルを送ることが出来る。それだけでなく、サーバーであればそこが駄目になってしまえば全てのユーザーに情報が行き渡らなくなるが、数珠繋ぎのように情報を介すのでどこか一つが駄目になってしまっても、情報の共有ができるのだ。それを可能にしたのがファイル共有ソフト「Winny」なのだ。そして、それを開発したのが金子なのだ。その金子を逮捕してしまったのが、京都府警なのである。ここで注意しておきたい。ファイル共有ソフトはWinnyだけではない。「Share」や「BitTorrent」や「WinMX」など、あまたに存在している。これについては時間があれば詳しく書きたい。
で、いかに重要な裁判であるか理解してくれたと思う。この裁判の判決によっては、ネットで公開して、様々なユーザーの意見を取り込み、それを反映させるという『Web2.0時代』的ソフトウェア開発に大きな歯止めが食らうのだ。それで結果的に、不利益を被るのは私たちユーザー自身である。今後のオープンソースなどの、ソフトウェア開発全般に与える影響は大きい。ましてや、その『ファイル共有』という行為自体が違法であるという含みを残すことにもなる。
つまり金子が敗訴するようなことがあれば、「Web1.0時代」に逆戻りするどころか、「Web0.0」のネット原始時代に戻るようなものなのだ。ネットが死に絶えるかもしれない大事件なのだ。
ごめんなさい、金子がどういう罪名で京都府警に逮捕されたのかを言い忘れていた。逮捕されてから数年も経つので、すっかり忘れてる人や、そもそも全く知らない人も少なくないのではないかと思う。多分、驚かれるかも知れない。
では言う。金子は「著作権侵害幇助」の罪で逮捕されたのだ。日々繰り返されているファイル交換による著作権侵害を幇助しているソフトを制作したという罪で逮捕されたのだ。これを最近の事件で言い換えてみる。先月福岡市職員が飲酒運転で子供3人が乗車した車に追突し、死亡させた事件があった。警察はこの福岡市職員を逮捕するのではなく、職員が乗っていた車のメーカーと、職員の判断を鈍らせた酒を造った酒メーカーの責任者を逮捕しているようなものなのだ。「飲酒事故を幇助した」からという理由で…。逮捕当初、2ちゃんねるでも相当議論が紛糾し、京都府警も糾弾された。
いかに金子が滅茶苦茶な理由で逮捕されたのか、もう国家賠償請求ものの大珍事である。ましてや金子は検察から懲役一年を求刑されている。この刑が確定するような自体が起きれば、日本の「司法」も根幹から問われなければいけない事態に陥るであろう。
とにかく『ファイル共有ソフト』がいかに便利なソフトが理解してくれたと思う。
日本は特に高速回線が発達しているので、なおさらその『利便性』は格段に増す。
誰でも、いつでも、どこでも、どんな情報でも発信すること、受信することができうるのだ。
絶えず、情報がせき止めることなく交流できるのだ。
「Web1.0時代」のように情報が死ぬ(情報を得られない)ということがないのだ。
誰もが分け隔てなく享受できるという『情報の分散性』を飛躍させる上で欠かせないツールなのだ。
ネットユーザー本位の『Web2.0時代』の主役になりうるであろう。
Wikipediaとはインターネット上の辞書みたいなものである。扱っているジャンルは多岐にわたり、基本的にオールジャンル。エロ・芸術から政治や物理に至るまで、種々様々まさしくである。またネットユーザーなら誰でもその記事を編集できるところが最大の売り。はてななども同じ類の辞書であるが、はてなユーザーしか編集できない(多分)など、編集できる人間が非常に限られている。やはり何も登録せずともIPユーザーでも編集できるWikipediaは、他と比較にならないぐらい多い。それと比例して記事の数の多さも半端ではないし、常に数分おきに様々な記事が編集されている。記事が生き物のように常に蠢いているのだ。
また全て編集の対して、その履歴が残るシステムが取られているので、誰が編集したか、どういう編集をしたかその差分も知ることすら出来るのだ。最近では楽天証券の社員が、自社の記事に書かれた不都合の記事を意図的に削除したことでニュースになった。その時には、このシステムが非常に有効な働きを示した。そして久々に、Wikipediaの名前を聞いたので、ちょっと筆を執ってみたいと思う。
また全て編集の対して、その履歴が残るシステムが取られているので、誰が編集したか、どういう編集をしたかその差分も知ることすら出来るのだ。最近では楽天証券の社員が、自社の記事に書かれた不都合の記事を意図的に削除したことでニュースになった。その時には、このシステムが非常に有効な働きを示した。そして久々に、Wikipediaの名前を聞いたので、ちょっと筆を執ってみたいと思う。
まず自分がWikipediaとの関わりを持ったのは、2004年の半ばぐらいのこと。今から約2年ほど前のことだ。常々、自分は悪いイメージばかり持たれている2ちゃんねるのイメージを改善しようと思っていた。
たまたまGoogleで自分が知りたいキーワードを検索すると、Wikipediaの記事が上位に引っかかった。よくよく思い返してみると、そのキーワードだけでなく、現在でもそうだがWikipediaのサイトがよく上位に引っかかっていることを思い出した。世間の目に触れやすいサイトほど世間のイメージを変えるには好都合である。ここを利用しようと咄嗟に思いついた。
そしてIPユーザーから、軽い気持ちでWikipediaの世界に飛び込んだ。まず手始めに、編集の仕方を覚えるため、どうでもいい色んな記事を見つけては、手当たり次第に編集した。しかし、数十回程度編集してる内に、IPは回線を切断する度にコロコロ変わるので、自分が編集した履歴を把握するのが少し面倒だなとはたと気付いた。そこで仕方なく、ユーザーに登録した。2ちゃんねるに慣れていたせいか、あまり気乗りではなかった。そこから約8ヶ月程度で1000回近くは編集をした。英語版の翻訳、他言語間のリンクを貼ったり、誤字脱字を修正したり、もちろん新規記事を作ったり、ノートで提案や相手を注意したり、運営方法のあり方についての投票など、基本的に人並み程度、人より少しWikipediaに関わってきたつもりだ。英語版の記事についてもいくつか編集してきた。
しかし、1年以上前に編集の筆を置き、Wikipedia自体を見ることすらなくなった。そのことはもう少し後で述べる。
たまたまGoogleで自分が知りたいキーワードを検索すると、Wikipediaの記事が上位に引っかかった。よくよく思い返してみると、そのキーワードだけでなく、現在でもそうだがWikipediaのサイトがよく上位に引っかかっていることを思い出した。世間の目に触れやすいサイトほど世間のイメージを変えるには好都合である。ここを利用しようと咄嗟に思いついた。
そしてIPユーザーから、軽い気持ちでWikipediaの世界に飛び込んだ。まず手始めに、編集の仕方を覚えるため、どうでもいい色んな記事を見つけては、手当たり次第に編集した。しかし、数十回程度編集してる内に、IPは回線を切断する度にコロコロ変わるので、自分が編集した履歴を把握するのが少し面倒だなとはたと気付いた。そこで仕方なく、ユーザーに登録した。2ちゃんねるに慣れていたせいか、あまり気乗りではなかった。そこから約8ヶ月程度で1000回近くは編集をした。英語版の翻訳、他言語間のリンクを貼ったり、誤字脱字を修正したり、もちろん新規記事を作ったり、ノートで提案や相手を注意したり、運営方法のあり方についての投票など、基本的に人並み程度、人より少しWikipediaに関わってきたつもりだ。英語版の記事についてもいくつか編集してきた。
しかし、1年以上前に編集の筆を置き、Wikipedia自体を見ることすらなくなった。そのことはもう少し後で述べる。
●記事数のからくり
Wikipedia内に存在している記事の総数は2006年9月現在、25万近く存在しているとかいないとか。その数字を聞いて、心底驚かれた方も多いだろう。しかしながら、実際辞書として読み物として成立している記事は、もっと少ないと言うことを忠告しておきたい。
同じ意味を持つ言葉を想像してみていただきたい。例えば、「単車」や「バイク」という言葉。意味は同じである。この場合、「単車」という記事と「バイク」という記事が存在しているか?もちろん、答えは否。内容が重複する記事を作ったとしても、Wikipediaのサーバーを無駄に圧迫するだけである。ましてや「単車」と同じ意味を持つ単語として、他に「オートバイ」「スクーター」「自動二輪車」など際限なく存在する。
「バイク」という記事を開いた場合、「単車」という記事に飛ぶようにしなければならない。もちろん「オートバイ」や「スクーター」なども同じである。それを『リダイレクト記事』と呼ぶ。「バイク」という記事には、ただREDIRECTと記述されているだけなので、サーバーに掛かる負担は皆無といっていい。
つまり、一つの読み物として成立する記事を作るだけで、四つの新たな記事が出来てしまうのだ。
同じ意味の複数の単語だけではなく、例えば「略称」や「通称」すら中身のない『リダイレクト記事』になっている現状がある。これは正式名称のほとんどに略称があるとまでは言わないが、国際連合(国連)、日米安全保障条約(日米安保or安保)など少し思い浮かべただけでも結構思いの外たくさんある。『リダイレクト記事』を把握するのは難しいが、その実態はかなり大規模ではなかろうかと思う。しかもWikipediaの運営やその他に関わる、紛らわしい記事名などを誘導するための記事など、実際の辞書とはほど遠い記事まで含まれている。しかもユーザー情報の記事まで含まれているのではないかと思う。
だから、実際は25万からかなりの数を差し引いて考えなければならない。その数は数万、もしかしたら10万近くに及ぶかも知れない。
Wikipedia内に存在している記事の総数は2006年9月現在、25万近く存在しているとかいないとか。その数字を聞いて、心底驚かれた方も多いだろう。しかしながら、実際辞書として読み物として成立している記事は、もっと少ないと言うことを忠告しておきたい。
同じ意味を持つ言葉を想像してみていただきたい。例えば、「単車」や「バイク」という言葉。意味は同じである。この場合、「単車」という記事と「バイク」という記事が存在しているか?もちろん、答えは否。内容が重複する記事を作ったとしても、Wikipediaのサーバーを無駄に圧迫するだけである。ましてや「単車」と同じ意味を持つ単語として、他に「オートバイ」「スクーター」「自動二輪車」など際限なく存在する。
「バイク」という記事を開いた場合、「単車」という記事に飛ぶようにしなければならない。もちろん「オートバイ」や「スクーター」なども同じである。それを『リダイレクト記事』と呼ぶ。「バイク」という記事には、ただREDIRECTと記述されているだけなので、サーバーに掛かる負担は皆無といっていい。
つまり、一つの読み物として成立する記事を作るだけで、四つの新たな記事が出来てしまうのだ。
同じ意味の複数の単語だけではなく、例えば「略称」や「通称」すら中身のない『リダイレクト記事』になっている現状がある。これは正式名称のほとんどに略称があるとまでは言わないが、国際連合(国連)、日米安全保障条約(日米安保or安保)など少し思い浮かべただけでも結構思いの外たくさんある。『リダイレクト記事』を把握するのは難しいが、その実態はかなり大規模ではなかろうかと思う。しかもWikipediaの運営やその他に関わる、紛らわしい記事名などを誘導するための記事など、実際の辞書とはほど遠い記事まで含まれている。しかもユーザー情報の記事まで含まれているのではないかと思う。
だから、実際は25万からかなりの数を差し引いて考えなければならない。その数は数万、もしかしたら10万近くに及ぶかも知れない。
●編集数のマジック
あるユーザーの編集をした回数が3000回や4000回を軽く超えているという数字を聞いて、昔驚いたことがある。「今までどんな編集をしてきた人なんだろう」と、ふとそのユーザーの編集履歴を覗いてみたところ、何のことはない。実に簡単なマジックが隠されていた。
『編集』と聞くと誰しもが、記事を新たに作ったり、ほとんど何も書かれていない記事とは到底呼べない記事(スタブ記事)にかなりの量を加筆してまともに見れる記事に仕上げたり、明らかな誤植を訂正したりといったことを思い浮かべるだろう。
しかしながら、Wikipediaではノートで発言をしたり、ちょっと編集してみたけど、細かいミスがいくつもあり、数分おきに一個ずつ訂正し、何十回と再編集し直すなどしていた。もちろん、その一回一回が編集数に含まれる。○○の一覧という記事で、人名などを細かに増やしていったり、ただ[[]]を付け加え、リンクを作るだけとか、もう編集とは名ばかりのお粗末な編集ばかりしかしていなかったのだ。意図的か無意識的にか推し量ることは邪推かも知れないので止めておく。
ましてや、自分の自己紹介の記事の編集すら、その数に含まれる。下手をしたら、自分の紹介記事だけで300・400を超えているかも知れないのだ。当然、編集数が膨大であるため確認することは少し困難だ。しかしながら、自分の自己紹介の記事ばかり編集しているユーザーは少なからずいることは確かである。
編集数が多いからといって、そのユーザーが必ずしも優秀であると断言することはできない。むしろ、数を増やすだけなら誰にでも出来てしまう。少し暴論ではあるが、編集数が多いユーザーほど無能なのかもしれない。何故なら、一回の編集で過不足なく、適切な編集が出来ていないからである。
だから、Wikipediaが保有している「数字」を安直に信用してはならない。
あるユーザーの編集をした回数が3000回や4000回を軽く超えているという数字を聞いて、昔驚いたことがある。「今までどんな編集をしてきた人なんだろう」と、ふとそのユーザーの編集履歴を覗いてみたところ、何のことはない。実に簡単なマジックが隠されていた。
『編集』と聞くと誰しもが、記事を新たに作ったり、ほとんど何も書かれていない記事とは到底呼べない記事(スタブ記事)にかなりの量を加筆してまともに見れる記事に仕上げたり、明らかな誤植を訂正したりといったことを思い浮かべるだろう。
しかしながら、Wikipediaではノートで発言をしたり、ちょっと編集してみたけど、細かいミスがいくつもあり、数分おきに一個ずつ訂正し、何十回と再編集し直すなどしていた。もちろん、その一回一回が編集数に含まれる。○○の一覧という記事で、人名などを細かに増やしていったり、ただ[[]]を付け加え、リンクを作るだけとか、もう編集とは名ばかりのお粗末な編集ばかりしかしていなかったのだ。意図的か無意識的にか推し量ることは邪推かも知れないので止めておく。
ましてや、自分の自己紹介の記事の編集すら、その数に含まれる。下手をしたら、自分の紹介記事だけで300・400を超えているかも知れないのだ。当然、編集数が膨大であるため確認することは少し困難だ。しかしながら、自分の自己紹介の記事ばかり編集しているユーザーは少なからずいることは確かである。
編集数が多いからといって、そのユーザーが必ずしも優秀であると断言することはできない。むしろ、数を増やすだけなら誰にでも出来てしまう。少し暴論ではあるが、編集数が多いユーザーほど無能なのかもしれない。何故なら、一回の編集で過不足なく、適切な編集が出来ていないからである。
だから、Wikipediaが保有している「数字」を安直に信用してはならない。
Wikipediaは記事から記事へと次々、リンクを辿り、様々なページを閲覧できる。そう、まさに本当の辞書をめくっているかのような錯覚を覚える。Wikipedia一つで、まさにネット空間上の仮想旅行を楽しめるのだ。魔法のトランクと言っても良いかもしれない。現に実際、世界各地の様々な国や地方の記事が存在している。世界遺産などの記事も、写真付きで詳しく解説されている。一度、海外旅行を計画している方は、仮想旅行をしてみるのは如何であろう。もちろん国内旅行に関しても同じである。そして、実際に旅行に行かれた暁には、その土地で撮影した写真や思い出を記事に反映させてみるのも、また一興であろう。
また明らかな誤植を見つけた場合、それを正しい情報に修正することで、さも自分が「正義のヒーロー」になったかのように立ち振る舞えるのだ。その修正が反映された瞬間は、何とも言えぬ恍惚感を味わえる。
Wikipediaは最初でも述べたが、数十秒おき、数分おきに目まぐるしく編集がなされる。数分前とは異なる様相を呈している記事がそこにはある。例えば、ある大きな事件などが起こった後には顕著に現れる。特に唐突な、人の死(訃報や結婚)などのニュースが流れた後は、極端に顕著となって現れる。
例えば、今日はブタエモンの初公判が行われた。ブタエモンが法廷で検察に対して無罪を主張したことなどの内容もすぐさま「堀江貴文」の記事に反映されたのではなかろうか。ちなみにブタエモン以外にも、今日はWinnyを開発した金子の裁判も結審している。
既に過ぎたことばかり見ても仕方ないので、近々起きる大きな事件が何かあるか考えてみよう。そう明後日には「紀子出産」がある。ニューステロップや速報が流れたらすぐさま、Wikipediaの秋篠宮紀子の記事を覗いてみるといい。現段階では、女児か男児のどちらかが分かっていないのだ。その国民的関心たるや、ブタエモンの比ではないかもしれない。ものの数分の内にそのことが記事に反映されるであろう。現に、Wikipediaにはそういう「誰が一番に記事に反映させることが出来るか」みたいな徒競走的要素もある。それがまた人々を惹きつけるのだ。現に、自分もある有名人が亡くなった直後、一番にその訃報を記事に反映させたことがある。不謹慎な話で実に恐縮するばかりであるが(;´瓜`)…。
記事が生々しい生き物のように常に蠢いているのだ。その様を見るのが非常に面白い。そこには誰かの足跡がある。そこには人間のぬくもりがあると言ってもいい。人の多さ、レスポンスの速さなどは、2ちゃんねると極めて酷似している。少し放っておけば、スレッドが生き物のように進行していく。誰かがそれを命令しているわけではないのだ。ただ生き物が自己の判断で段々大きくなっていく。
大量に記事が追加される瞬間に立ち会ったときに得られる至福感・充実感はまた格別である。自分が記事を編集したわけでもなく、他人が編集したのにだ。それが、自分がこういう風に記事を編集しようと思っていた内容とそっくりであったならば、「してやられたw」という感情とともに、妙な仲間意識、親近感を覚えるものだ。
参加する楽しみだけではなく、閲覧する楽しみも存在している。
これが重要な要素なのだ。
そして必ず、そこには「変化」が付きまとっている。
Wikipediaにはそれがいる。
だから、そそられるのだ。
だから、面白い。
また明らかな誤植を見つけた場合、それを正しい情報に修正することで、さも自分が「正義のヒーロー」になったかのように立ち振る舞えるのだ。その修正が反映された瞬間は、何とも言えぬ恍惚感を味わえる。
Wikipediaは最初でも述べたが、数十秒おき、数分おきに目まぐるしく編集がなされる。数分前とは異なる様相を呈している記事がそこにはある。例えば、ある大きな事件などが起こった後には顕著に現れる。特に唐突な、人の死(訃報や結婚)などのニュースが流れた後は、極端に顕著となって現れる。
例えば、今日はブタエモンの初公判が行われた。ブタエモンが法廷で検察に対して無罪を主張したことなどの内容もすぐさま「堀江貴文」の記事に反映されたのではなかろうか。ちなみにブタエモン以外にも、今日はWinnyを開発した金子の裁判も結審している。
既に過ぎたことばかり見ても仕方ないので、近々起きる大きな事件が何かあるか考えてみよう。そう明後日には「紀子出産」がある。ニューステロップや速報が流れたらすぐさま、Wikipediaの秋篠宮紀子の記事を覗いてみるといい。現段階では、女児か男児のどちらかが分かっていないのだ。その国民的関心たるや、ブタエモンの比ではないかもしれない。ものの数分の内にそのことが記事に反映されるであろう。現に、Wikipediaにはそういう「誰が一番に記事に反映させることが出来るか」みたいな徒競走的要素もある。それがまた人々を惹きつけるのだ。現に、自分もある有名人が亡くなった直後、一番にその訃報を記事に反映させたことがある。不謹慎な話で実に恐縮するばかりであるが(;´瓜`)…。
記事が生々しい生き物のように常に蠢いているのだ。その様を見るのが非常に面白い。そこには誰かの足跡がある。そこには人間のぬくもりがあると言ってもいい。人の多さ、レスポンスの速さなどは、2ちゃんねると極めて酷似している。少し放っておけば、スレッドが生き物のように進行していく。誰かがそれを命令しているわけではないのだ。ただ生き物が自己の判断で段々大きくなっていく。
大量に記事が追加される瞬間に立ち会ったときに得られる至福感・充実感はまた格別である。自分が記事を編集したわけでもなく、他人が編集したのにだ。それが、自分がこういう風に記事を編集しようと思っていた内容とそっくりであったならば、「してやられたw」という感情とともに、妙な仲間意識、親近感を覚えるものだ。
参加する楽しみだけではなく、閲覧する楽しみも存在している。
これが重要な要素なのだ。
そして必ず、そこには「変化」が付きまとっている。
Wikipediaにはそれがいる。
だから、そそられるのだ。
だから、面白い。
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