『格差』と『貧困』と『不平等』を広げる自民党・創価学会・経団連を抹殺せよヽ(´∀`)9 ビシ!! これでは、日本のお先は真っ暗(*∀*)YO!!
[PR]
[ ]
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
●編集数のマジック
あるユーザーの編集をした回数が3000回や4000回を軽く超えているという数字を聞いて、昔驚いたことがある。「今までどんな編集をしてきた人なんだろう」と、ふとそのユーザーの編集履歴を覗いてみたところ、何のことはない。実に簡単なマジックが隠されていた。
『編集』と聞くと誰しもが、記事を新たに作ったり、ほとんど何も書かれていない記事とは到底呼べない記事(スタブ記事)にかなりの量を加筆してまともに見れる記事に仕上げたり、明らかな誤植を訂正したりといったことを思い浮かべるだろう。
しかしながら、Wikipediaではノートで発言をしたり、ちょっと編集してみたけど、細かいミスがいくつもあり、数分おきに一個ずつ訂正し、何十回と再編集し直すなどしていた。もちろん、その一回一回が編集数に含まれる。○○の一覧という記事で、人名などを細かに増やしていったり、ただ[[]]を付け加え、リンクを作るだけとか、もう編集とは名ばかりのお粗末な編集ばかりしかしていなかったのだ。意図的か無意識的にか推し量ることは邪推かも知れないので止めておく。
ましてや、自分の自己紹介の記事の編集すら、その数に含まれる。下手をしたら、自分の紹介記事だけで300・400を超えているかも知れないのだ。当然、編集数が膨大であるため確認することは少し困難だ。しかしながら、自分の自己紹介の記事ばかり編集しているユーザーは少なからずいることは確かである。
編集数が多いからといって、そのユーザーが必ずしも優秀であると断言することはできない。むしろ、数を増やすだけなら誰にでも出来てしまう。少し暴論ではあるが、編集数が多いユーザーほど無能なのかもしれない。何故なら、一回の編集で過不足なく、適切な編集が出来ていないからである。
だから、Wikipediaが保有している「数字」を安直に信用してはならない。
あるユーザーの編集をした回数が3000回や4000回を軽く超えているという数字を聞いて、昔驚いたことがある。「今までどんな編集をしてきた人なんだろう」と、ふとそのユーザーの編集履歴を覗いてみたところ、何のことはない。実に簡単なマジックが隠されていた。
『編集』と聞くと誰しもが、記事を新たに作ったり、ほとんど何も書かれていない記事とは到底呼べない記事(スタブ記事)にかなりの量を加筆してまともに見れる記事に仕上げたり、明らかな誤植を訂正したりといったことを思い浮かべるだろう。
しかしながら、Wikipediaではノートで発言をしたり、ちょっと編集してみたけど、細かいミスがいくつもあり、数分おきに一個ずつ訂正し、何十回と再編集し直すなどしていた。もちろん、その一回一回が編集数に含まれる。○○の一覧という記事で、人名などを細かに増やしていったり、ただ[[]]を付け加え、リンクを作るだけとか、もう編集とは名ばかりのお粗末な編集ばかりしかしていなかったのだ。意図的か無意識的にか推し量ることは邪推かも知れないので止めておく。
ましてや、自分の自己紹介の記事の編集すら、その数に含まれる。下手をしたら、自分の紹介記事だけで300・400を超えているかも知れないのだ。当然、編集数が膨大であるため確認することは少し困難だ。しかしながら、自分の自己紹介の記事ばかり編集しているユーザーは少なからずいることは確かである。
編集数が多いからといって、そのユーザーが必ずしも優秀であると断言することはできない。むしろ、数を増やすだけなら誰にでも出来てしまう。少し暴論ではあるが、編集数が多いユーザーほど無能なのかもしれない。何故なら、一回の編集で過不足なく、適切な編集が出来ていないからである。
だから、Wikipediaが保有している「数字」を安直に信用してはならない。
PR
Wikipediaは記事から記事へと次々、リンクを辿り、様々なページを閲覧できる。そう、まさに本当の辞書をめくっているかのような錯覚を覚える。Wikipedia一つで、まさにネット空間上の仮想旅行を楽しめるのだ。魔法のトランクと言っても良いかもしれない。現に実際、世界各地の様々な国や地方の記事が存在している。世界遺産などの記事も、写真付きで詳しく解説されている。一度、海外旅行を計画している方は、仮想旅行をしてみるのは如何であろう。もちろん国内旅行に関しても同じである。そして、実際に旅行に行かれた暁には、その土地で撮影した写真や思い出を記事に反映させてみるのも、また一興であろう。
また明らかな誤植を見つけた場合、それを正しい情報に修正することで、さも自分が「正義のヒーロー」になったかのように立ち振る舞えるのだ。その修正が反映された瞬間は、何とも言えぬ恍惚感を味わえる。
Wikipediaは最初でも述べたが、数十秒おき、数分おきに目まぐるしく編集がなされる。数分前とは異なる様相を呈している記事がそこにはある。例えば、ある大きな事件などが起こった後には顕著に現れる。特に唐突な、人の死(訃報や結婚)などのニュースが流れた後は、極端に顕著となって現れる。
例えば、今日はブタエモンの初公判が行われた。ブタエモンが法廷で検察に対して無罪を主張したことなどの内容もすぐさま「堀江貴文」の記事に反映されたのではなかろうか。ちなみにブタエモン以外にも、今日はWinnyを開発した金子の裁判も結審している。
既に過ぎたことばかり見ても仕方ないので、近々起きる大きな事件が何かあるか考えてみよう。そう明後日には「紀子出産」がある。ニューステロップや速報が流れたらすぐさま、Wikipediaの秋篠宮紀子の記事を覗いてみるといい。現段階では、女児か男児のどちらかが分かっていないのだ。その国民的関心たるや、ブタエモンの比ではないかもしれない。ものの数分の内にそのことが記事に反映されるであろう。現に、Wikipediaにはそういう「誰が一番に記事に反映させることが出来るか」みたいな徒競走的要素もある。それがまた人々を惹きつけるのだ。現に、自分もある有名人が亡くなった直後、一番にその訃報を記事に反映させたことがある。不謹慎な話で実に恐縮するばかりであるが(;´瓜`)…。
記事が生々しい生き物のように常に蠢いているのだ。その様を見るのが非常に面白い。そこには誰かの足跡がある。そこには人間のぬくもりがあると言ってもいい。人の多さ、レスポンスの速さなどは、2ちゃんねると極めて酷似している。少し放っておけば、スレッドが生き物のように進行していく。誰かがそれを命令しているわけではないのだ。ただ生き物が自己の判断で段々大きくなっていく。
大量に記事が追加される瞬間に立ち会ったときに得られる至福感・充実感はまた格別である。自分が記事を編集したわけでもなく、他人が編集したのにだ。それが、自分がこういう風に記事を編集しようと思っていた内容とそっくりであったならば、「してやられたw」という感情とともに、妙な仲間意識、親近感を覚えるものだ。
参加する楽しみだけではなく、閲覧する楽しみも存在している。
これが重要な要素なのだ。
そして必ず、そこには「変化」が付きまとっている。
Wikipediaにはそれがいる。
だから、そそられるのだ。
だから、面白い。
また明らかな誤植を見つけた場合、それを正しい情報に修正することで、さも自分が「正義のヒーロー」になったかのように立ち振る舞えるのだ。その修正が反映された瞬間は、何とも言えぬ恍惚感を味わえる。
Wikipediaは最初でも述べたが、数十秒おき、数分おきに目まぐるしく編集がなされる。数分前とは異なる様相を呈している記事がそこにはある。例えば、ある大きな事件などが起こった後には顕著に現れる。特に唐突な、人の死(訃報や結婚)などのニュースが流れた後は、極端に顕著となって現れる。
例えば、今日はブタエモンの初公判が行われた。ブタエモンが法廷で検察に対して無罪を主張したことなどの内容もすぐさま「堀江貴文」の記事に反映されたのではなかろうか。ちなみにブタエモン以外にも、今日はWinnyを開発した金子の裁判も結審している。
既に過ぎたことばかり見ても仕方ないので、近々起きる大きな事件が何かあるか考えてみよう。そう明後日には「紀子出産」がある。ニューステロップや速報が流れたらすぐさま、Wikipediaの秋篠宮紀子の記事を覗いてみるといい。現段階では、女児か男児のどちらかが分かっていないのだ。その国民的関心たるや、ブタエモンの比ではないかもしれない。ものの数分の内にそのことが記事に反映されるであろう。現に、Wikipediaにはそういう「誰が一番に記事に反映させることが出来るか」みたいな徒競走的要素もある。それがまた人々を惹きつけるのだ。現に、自分もある有名人が亡くなった直後、一番にその訃報を記事に反映させたことがある。不謹慎な話で実に恐縮するばかりであるが(;´瓜`)…。
記事が生々しい生き物のように常に蠢いているのだ。その様を見るのが非常に面白い。そこには誰かの足跡がある。そこには人間のぬくもりがあると言ってもいい。人の多さ、レスポンスの速さなどは、2ちゃんねると極めて酷似している。少し放っておけば、スレッドが生き物のように進行していく。誰かがそれを命令しているわけではないのだ。ただ生き物が自己の判断で段々大きくなっていく。
大量に記事が追加される瞬間に立ち会ったときに得られる至福感・充実感はまた格別である。自分が記事を編集したわけでもなく、他人が編集したのにだ。それが、自分がこういう風に記事を編集しようと思っていた内容とそっくりであったならば、「してやられたw」という感情とともに、妙な仲間意識、親近感を覚えるものだ。
参加する楽しみだけではなく、閲覧する楽しみも存在している。
これが重要な要素なのだ。
そして必ず、そこには「変化」が付きまとっている。
Wikipediaにはそれがいる。
だから、そそられるのだ。
だから、面白い。
●運営に携わっている人間の少なさ
現在、運営に携わっている人間はちょうど30人らしい。記事数25万のWikipediaを監視するにしては、余りに少ない。だから、記事を保護状態(編集できない状態)にしておきながら、いつまでたってもそれが解消されないこともある。記事の増加と、運営に携わっている人間の数が全く比例していない。しかも、こいつは物理、あいつは政治という風に役割分担されているわけでもなく、あくまでまったくの着の身着のままである。作業分担が極めて曖昧だから、作業効率も極めて悪い。Wikipediaは2ちゃんねる以上に多ジャンルに渡り、専門性も求められているにも関わらずだ。
2ちゃんねるですら、レスやスレの削除は「削除人」、ISPの規制は「規制人」、ISPに通報するのは「通報人」、N即+など特定の板でスレを立てるのは「記者」、などと細かく役割分担が決まっている。運営に携わっている人数自体も、Wikipediaの比にならない。
2ちゃんねると同じように「人海戦術」で対応していくしかないのに、たかだか30人という人数で対応できるはずがない。
実際、明らかにあるサイトからコピペしただけの記事があったが、それを運営に報告しても、対応は遅いだろうと判断したため、自分が一から書き直した経験もある。著作権侵害の疑いがあれば、その記事は運営がハッキリ対応するまで閲覧することは不可能となるからだ。そんなことされる程度なら、自分で全部書き直してしまった方が余程Wikipediaのためになる。
現在、運営に携わっている人間はちょうど30人らしい。記事数25万のWikipediaを監視するにしては、余りに少ない。だから、記事を保護状態(編集できない状態)にしておきながら、いつまでたってもそれが解消されないこともある。記事の増加と、運営に携わっている人間の数が全く比例していない。しかも、こいつは物理、あいつは政治という風に役割分担されているわけでもなく、あくまでまったくの着の身着のままである。作業分担が極めて曖昧だから、作業効率も極めて悪い。Wikipediaは2ちゃんねる以上に多ジャンルに渡り、専門性も求められているにも関わらずだ。
2ちゃんねるですら、レスやスレの削除は「削除人」、ISPの規制は「規制人」、ISPに通報するのは「通報人」、N即+など特定の板でスレを立てるのは「記者」、などと細かく役割分担が決まっている。運営に携わっている人数自体も、Wikipediaの比にならない。
2ちゃんねると同じように「人海戦術」で対応していくしかないのに、たかだか30人という人数で対応できるはずがない。
実際、明らかにあるサイトからコピペしただけの記事があったが、それを運営に報告しても、対応は遅いだろうと判断したため、自分が一から書き直した経験もある。著作権侵害の疑いがあれば、その記事は運営がハッキリ対応するまで閲覧することは不可能となるからだ。そんなことされる程度なら、自分で全部書き直してしまった方が余程Wikipediaのためになる。
●運営に携わっている人間の資質
「Wikipediaを辞めた理由①」でも述べたが、Wikipediaには30人の運営がいる。誰がどういう理由で選ばれたかがハッキリしない。いつの間にか、誰々というユーザーが運営に携わっていたと言うことがままある。特にWikipedia当初から携わっていた人間が今でも携わっている。当初はかなりユーザー数も少なく、要求されるレベルも低く、運営に向けられる視線も厳しくなかった。
どういう活動をしているか報告する義務もない。誰からも評価もされることは決してない。一度運営になってしまえば、余程の荒らし的な行為をしない限り、辞めさせられることもない。
運営の中には、大した記事を書いてる人間はほとんどいない。何か仲裁に入って、問題を収める能力がある人間がいるわけでもない。何故なら、幅広いジャンルの知識、それも専門的な知識があるわけでもないからだ。優れた問題処理能力のある人間もいない。
何か特別な才能や資格や、優れた部分があるから運営に携わっている人間はほとんどいない。Wikipediaの運営に携わろうとしているぐらいだから、Wikipediaに熱い情熱を持ったフリークなんだろうな程度が臭ってくるぐらいである。前にTVに出ていた運営の人間がまさにそれである。名前や顔やユーザー名は覚えていないが、コイツじゃ駄目だなというのが感想しか芽生えなかった。リアルでもそれが実感できた。
一般的、平均的レベルのユーザーの延長線上程度の人間が仕事ではなく、単なる日常生活の片手間のボランティアでやってるのだ。誰が考えても、一人当たりがこなせる仕事量の限界は自ずと知れている。であるならば、なおさら、この「30人」という数字が異様に少なく見えてくる。ボランティアだから常に監視できるわけじゃない。だからこそ、増やさなければいけないのである。
そもそも、誰が見てもこのユーザーが明らかに運営であると分かるようなシステムがない。監視されているという意識がないから、運営側が『緊張感』や『自覚』を持って仕事をすることがない。レベルも至って向上していないのであろう。
Wikipediaの運営は、小学校の学級委員程度の「お粗末」なものであるから、基本的に自分は運営側を全く信用していなかった。ハッキリ言って2ちゃんねる以下だという考えに変化はない。2ちゃんねるで言えば、リアルの日常生活で充実感が得られない何の取り柄もないアフォが、名無しの中でコテハンを付けて、何となく目立っているという錯覚で詰まらない精神的充実を得るそういう名無し的コテと性質が酷似している。
あとでも述べるが、Wikipediaはユーザーから多額の募金をせびっている。そのWikipediaに渡っている多額の金と、この運営とを比較すると、どう考えても釣り合っていなかった。しかもその運営が、他ユーザーよりも多額に寄付している訳でもない。もろもろ全般的に、Wikipediaを利用しやすくしている訳でもない。この運営がWikipediaにどんな貢献をしているのかと考えると、酷く興ざめした。
日々、肥大化していくWikipediaと、彼らごく少数の平凡な運営を対比させてみてみると、非常に空しくなった。そしてWikipediaに貢献する意欲が奪われた。
「Wikipediaを辞めた理由①」でも述べたが、Wikipediaには30人の運営がいる。誰がどういう理由で選ばれたかがハッキリしない。いつの間にか、誰々というユーザーが運営に携わっていたと言うことがままある。特にWikipedia当初から携わっていた人間が今でも携わっている。当初はかなりユーザー数も少なく、要求されるレベルも低く、運営に向けられる視線も厳しくなかった。
どういう活動をしているか報告する義務もない。誰からも評価もされることは決してない。一度運営になってしまえば、余程の荒らし的な行為をしない限り、辞めさせられることもない。
運営の中には、大した記事を書いてる人間はほとんどいない。何か仲裁に入って、問題を収める能力がある人間がいるわけでもない。何故なら、幅広いジャンルの知識、それも専門的な知識があるわけでもないからだ。優れた問題処理能力のある人間もいない。
何か特別な才能や資格や、優れた部分があるから運営に携わっている人間はほとんどいない。Wikipediaの運営に携わろうとしているぐらいだから、Wikipediaに熱い情熱を持ったフリークなんだろうな程度が臭ってくるぐらいである。前にTVに出ていた運営の人間がまさにそれである。名前や顔やユーザー名は覚えていないが、コイツじゃ駄目だなというのが感想しか芽生えなかった。リアルでもそれが実感できた。
一般的、平均的レベルのユーザーの延長線上程度の人間が仕事ではなく、単なる日常生活の片手間のボランティアでやってるのだ。誰が考えても、一人当たりがこなせる仕事量の限界は自ずと知れている。であるならば、なおさら、この「30人」という数字が異様に少なく見えてくる。ボランティアだから常に監視できるわけじゃない。だからこそ、増やさなければいけないのである。
そもそも、誰が見てもこのユーザーが明らかに運営であると分かるようなシステムがない。監視されているという意識がないから、運営側が『緊張感』や『自覚』を持って仕事をすることがない。レベルも至って向上していないのであろう。
Wikipediaの運営は、小学校の学級委員程度の「お粗末」なものであるから、基本的に自分は運営側を全く信用していなかった。ハッキリ言って2ちゃんねる以下だという考えに変化はない。2ちゃんねるで言えば、リアルの日常生活で充実感が得られない何の取り柄もないアフォが、名無しの中でコテハンを付けて、何となく目立っているという錯覚で詰まらない精神的充実を得るそういう名無し的コテと性質が酷似している。
あとでも述べるが、Wikipediaはユーザーから多額の募金をせびっている。そのWikipediaに渡っている多額の金と、この運営とを比較すると、どう考えても釣り合っていなかった。しかもその運営が、他ユーザーよりも多額に寄付している訳でもない。もろもろ全般的に、Wikipediaを利用しやすくしている訳でもない。この運営がWikipediaにどんな貢献をしているのかと考えると、酷く興ざめした。
日々、肥大化していくWikipediaと、彼らごく少数の平凡な運営を対比させてみてみると、非常に空しくなった。そしてWikipediaに貢献する意欲が奪われた。
●他ユーザーについて
自分が主に編集した記事をノートに「ここはこうした方がいいんじゃないですか?」と、わざわざ教えに来る輩。「気付いたんだったらお前がやれ」っていう内容のことをわざわざ教えに来る輩。自由に編集できるんだから、「お前好みの記事にしたかったらお前が編集しろ」と、コッチがツッコんでやろうと思ったことが何度かあった。
ある記事を大きく編集したら、その記事に愛着を持ってるか知らないが、やたら細かく再編集しなおして、元の形に何とか持っていこうとする輩。逆に、文句があるならノートに書くなり、直接に言いに来いとツッコみたくなる輩。
自分が編集した場所を編集されて逆ギレする輩。「お前のサイトじゃねーんだよ」とツッコみたくなる輩。「ここはこうしなさい」「ここはこうするのが当たり前でしょ」とあたかも自分の編集方法にこだわり・哲学がWikipediaでもそれが大前提があるかのように命令してくるor無言で何度も再編集してくる輩。編集履歴を見たら大して編集経験もないペーペーの癖に、やたら偉そうにしてる糞。
本当、運営の人間も含めて金属バットで頭の形が変形するまでボコボコに殴り殺してやろうかなと思う人間ばかりだった。本当尊敬できる人間が一人もいなかった…自分が編集していたジャンルで出会わなかっただけだと信じたい。「能ある鷹は爪を隠す」という諺があるように、優秀な人間ほどあんまり目立たないのが世の摂理だ。ましてや日本では出る杭が打たれる風習があるのだから、なおさらのことである。
Wikipediaの閲覧自体を止めた理由にそれがある。「この人は次にどんな記事を編集して、こちらをアッと言わせてくれるんだろう」と期待を持たせてくれる人間がいなかったのだ。Wikipediaにいれば、Wikipediaを毎日覗いていれば、そういう人間に出会えるという動機を与えてくれなかったのだ。だから、躊躇なく閲覧することすら止めることができた。ただ自分がそういう人間を意識的に捜す努力をしなかったのも事実であるから、Wikipediaばかりを非難は出来ない。
まあそこには自由とは名ばかりの、2ちゃんねる以上にギスギスした、閉鎖的な空間しか待ってなかった。
だから、離れた。それだけのことである。
自分が主に編集した記事をノートに「ここはこうした方がいいんじゃないですか?」と、わざわざ教えに来る輩。「気付いたんだったらお前がやれ」っていう内容のことをわざわざ教えに来る輩。自由に編集できるんだから、「お前好みの記事にしたかったらお前が編集しろ」と、コッチがツッコんでやろうと思ったことが何度かあった。
ある記事を大きく編集したら、その記事に愛着を持ってるか知らないが、やたら細かく再編集しなおして、元の形に何とか持っていこうとする輩。逆に、文句があるならノートに書くなり、直接に言いに来いとツッコみたくなる輩。
自分が編集した場所を編集されて逆ギレする輩。「お前のサイトじゃねーんだよ」とツッコみたくなる輩。「ここはこうしなさい」「ここはこうするのが当たり前でしょ」とあたかも自分の編集方法にこだわり・哲学がWikipediaでもそれが大前提があるかのように命令してくるor無言で何度も再編集してくる輩。編集履歴を見たら大して編集経験もないペーペーの癖に、やたら偉そうにしてる糞。
本当、運営の人間も含めて金属バットで頭の形が変形するまでボコボコに殴り殺してやろうかなと思う人間ばかりだった。本当尊敬できる人間が一人もいなかった…自分が編集していたジャンルで出会わなかっただけだと信じたい。「能ある鷹は爪を隠す」という諺があるように、優秀な人間ほどあんまり目立たないのが世の摂理だ。ましてや日本では出る杭が打たれる風習があるのだから、なおさらのことである。
Wikipediaの閲覧自体を止めた理由にそれがある。「この人は次にどんな記事を編集して、こちらをアッと言わせてくれるんだろう」と期待を持たせてくれる人間がいなかったのだ。Wikipediaにいれば、Wikipediaを毎日覗いていれば、そういう人間に出会えるという動機を与えてくれなかったのだ。だから、躊躇なく閲覧することすら止めることができた。ただ自分がそういう人間を意識的に捜す努力をしなかったのも事実であるから、Wikipediaばかりを非難は出来ない。
まあそこには自由とは名ばかりの、2ちゃんねる以上にギスギスした、閉鎖的な空間しか待ってなかった。
だから、離れた。それだけのことである。
●著作権について
誰のものにもならなくて、また誰のものにもなるような存在であるかのように勘違いしていた。つまり自分が書いた・編集した記事をWikipediaに寄稿すれば、その記事がコピペし放題、商業利用もし放題の、その記事が完全に著作権フリーになると思い込んでたが、実際には違ったことが大きい。何のために書いてるのか分からなくなったのだ。最初はずっと多くの名も知らない人間のために書いていると思い込んでいたが、段々と実際には特定の誰かのために書いているような気がしてならなくなってきたのだ。
●運営予算について
Wikipediaはある財団から多額の寄付金を頂いて運営している。しかしながら、Wikipediaはたまに運営資金に底が付きそうになれば、募金を大々的に募るのだ。全ての記事の少し上あたりに、「募金お願いします。目標金額まであと○○万ドル(何千万円)」などと、自分が数ヶ月Wikipediaに滞在していただけで2回ほどあったと記憶している。いや、正確にはWikipediaは常に募金を募っているのだが、その募金が余り伸びないとユーザーに脅迫に近い催促をすると言った方がいい。
よくトップページの画面を思い出していただきたい。様々な他言語のWikipediaが存在し、Wikipediaだけではなく著名人の有名な言葉だけを集めたWikiQuoteなど、様々なWikiが用意されていることを、自分の記憶から辿り寄せられたことと思う。財団からの基金でまかなえないぐらいサイトの規模を大きくしておきながら、ユーザーに金をせびることは一体どういうことだと、利用していた当時からも常々疑問に思っていた。行き当たりばったりにも程がある。いくら2ちゃんねるでもユーザーにいやしくも金をせびったりはしない。
ちなみに、Wikipediaにびた一文の金すら募金をした経験がない。こういう本末転倒なことをしているトップにお灸を据えようと思ったからだ。しかし残念ながら、世界中からWikipediaに寄付をするような変わり者が現在でもたくさんいるようだ。
などなど、2004年の当初からこういう鬱憤が溜まりに溜まっていた。要は、Wikipediaにはいちいち「こっちの編集意欲が削がれてしまう要因」が多すぎたのだ。今もその根本的な性質は多分変わってないだろうと思う。もちろんWikipediaのメリットや必要性や、存在そのものを否定しているつもりは一切無い。ただ肌に合わなかったという下らない話であるw
本当に何かを伝えたい、誰かのためになりたいと熱心に思う人間はWikipediaには集まらないとつくづく思う。必死に食べかすをかき集めて、巣に持ち帰ろうとしているアリの行列が向かう先が『Wikipedia』だからだ。
誰のものにもならなくて、また誰のものにもなるような存在であるかのように勘違いしていた。つまり自分が書いた・編集した記事をWikipediaに寄稿すれば、その記事がコピペし放題、商業利用もし放題の、その記事が完全に著作権フリーになると思い込んでたが、実際には違ったことが大きい。何のために書いてるのか分からなくなったのだ。最初はずっと多くの名も知らない人間のために書いていると思い込んでいたが、段々と実際には特定の誰かのために書いているような気がしてならなくなってきたのだ。
●運営予算について
Wikipediaはある財団から多額の寄付金を頂いて運営している。しかしながら、Wikipediaはたまに運営資金に底が付きそうになれば、募金を大々的に募るのだ。全ての記事の少し上あたりに、「募金お願いします。目標金額まであと○○万ドル(何千万円)」などと、自分が数ヶ月Wikipediaに滞在していただけで2回ほどあったと記憶している。いや、正確にはWikipediaは常に募金を募っているのだが、その募金が余り伸びないとユーザーに脅迫に近い催促をすると言った方がいい。
よくトップページの画面を思い出していただきたい。様々な他言語のWikipediaが存在し、Wikipediaだけではなく著名人の有名な言葉だけを集めたWikiQuoteなど、様々なWikiが用意されていることを、自分の記憶から辿り寄せられたことと思う。財団からの基金でまかなえないぐらいサイトの規模を大きくしておきながら、ユーザーに金をせびることは一体どういうことだと、利用していた当時からも常々疑問に思っていた。行き当たりばったりにも程がある。いくら2ちゃんねるでもユーザーにいやしくも金をせびったりはしない。
ちなみに、Wikipediaにびた一文の金すら募金をした経験がない。こういう本末転倒なことをしているトップにお灸を据えようと思ったからだ。しかし残念ながら、世界中からWikipediaに寄付をするような変わり者が現在でもたくさんいるようだ。
などなど、2004年の当初からこういう鬱憤が溜まりに溜まっていた。要は、Wikipediaにはいちいち「こっちの編集意欲が削がれてしまう要因」が多すぎたのだ。今もその根本的な性質は多分変わってないだろうと思う。もちろんWikipediaのメリットや必要性や、存在そのものを否定しているつもりは一切無い。ただ肌に合わなかったという下らない話であるw
本当に何かを伝えたい、誰かのためになりたいと熱心に思う人間はWikipediaには集まらないとつくづく思う。必死に食べかすをかき集めて、巣に持ち帰ろうとしているアリの行列が向かう先が『Wikipedia』だからだ。
カレンダー
12 | 2025/01 | 02 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | |||
5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
カテゴリー
最新記事
(12/12)
(12/31)
(12/31)
(12/30)
(12/30)
(12/29)
(12/29)
(12/28)
(12/27)
(12/27)
(12/26)
(12/25)
(12/23)
ブログ内検索
アーカイブ
最古記事
(08/13)
(08/13)
(08/13)
(08/13)
(08/13)
(08/13)
(08/13)
(08/14)
(08/15)
(08/16)
(08/16)
(08/16)
(08/18)
アクセス解析