『格差』と『貧困』と『不平等』を広げる自民党・創価学会・経団連を抹殺せよヽ(´∀`)9 ビシ!! これでは、日本のお先は真っ暗(*∀*)YO!!
[PR]
[ ]
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「汚い新聞」こと『産経新聞』で、「死を考える」という標題で特集が組まれている。今は第4部で死刑制度について語られている。そして6日版の記事に宅間守のことが載っていた。宅間の主任弁護人を務めた戸谷という弁護士の視点から、死刑制度のあり方を問うていた。
何でもこの弁護士は宅間守に贖罪意識を芽生えさせることができず、宅間を死刑に追いやられてしまったことを悔いているそうだ。弁護士が被告人に贖罪の意識を芽生えさせようとする、つまり弁護士が被告人を弁護しないことは如何せん矛楯している。しかし、宅間は8人の子供を殺している。法律家として、いや普通に考えれば、死刑が下されるのが妥当である。ましてや自ら率先的に死刑を宅間は求めていた。だから、宅間に罪の意識を抱かせ、遺族に謝罪をさせてから、あの世へ旅立たせてあげるのが弁護人としての責務であると考えたそうだ。ちなみに、この弁護士は死刑制度廃止の立場を取っている、世間一般で言われる「人権派の弁護士」である。だからこそ、こういう発想に至ったのかも知れない。
しかし何度も宅間と接見し、話を聞き、諭したそうだが、周知の事実だがそれは結実しなかった。
また宅間守の死刑執行命令にサインした野沢太三は、「私的な仇討ちを国が代行してやった」と平然と宣っていたらしい。
でもよく考えてみれば、宅間の死刑執行の日は、被害者遺族には知らされない。そもそも加害者の死刑執行は、遺族に知らされない。いつもマスコミから伝聞でそれが伝わってくる。しかも一人の国民を惨殺したところで、死刑になる公算は極めて低い。今の日本の死刑制度に、遺族の私的な仇討ちの要素がどこにある?
死刑という制度は、国が国民の命を弄びたいが為に存在している制度に過ぎない。これが死刑に匹敵する行動を取った人間だから、誰も疑問を持たず、文句を言わないだけで、実質、国は意味のない死を宅間守に押しつけたに過ぎない。そもそも仇討ち云々の刑罰は裁判所・司法が決定するのであって、行政府にその権利はない。死刑執行の決定を行う最終判断が、一行政府の長にその権限があるのが間違いだ。
何でもこの弁護士は宅間守に贖罪意識を芽生えさせることができず、宅間を死刑に追いやられてしまったことを悔いているそうだ。弁護士が被告人に贖罪の意識を芽生えさせようとする、つまり弁護士が被告人を弁護しないことは如何せん矛楯している。しかし、宅間は8人の子供を殺している。法律家として、いや普通に考えれば、死刑が下されるのが妥当である。ましてや自ら率先的に死刑を宅間は求めていた。だから、宅間に罪の意識を抱かせ、遺族に謝罪をさせてから、あの世へ旅立たせてあげるのが弁護人としての責務であると考えたそうだ。ちなみに、この弁護士は死刑制度廃止の立場を取っている、世間一般で言われる「人権派の弁護士」である。だからこそ、こういう発想に至ったのかも知れない。
しかし何度も宅間と接見し、話を聞き、諭したそうだが、周知の事実だがそれは結実しなかった。
また宅間守の死刑執行命令にサインした野沢太三は、「私的な仇討ちを国が代行してやった」と平然と宣っていたらしい。
でもよく考えてみれば、宅間の死刑執行の日は、被害者遺族には知らされない。そもそも加害者の死刑執行は、遺族に知らされない。いつもマスコミから伝聞でそれが伝わってくる。しかも一人の国民を惨殺したところで、死刑になる公算は極めて低い。今の日本の死刑制度に、遺族の私的な仇討ちの要素がどこにある?
死刑という制度は、国が国民の命を弄びたいが為に存在している制度に過ぎない。これが死刑に匹敵する行動を取った人間だから、誰も疑問を持たず、文句を言わないだけで、実質、国は意味のない死を宅間守に押しつけたに過ぎない。そもそも仇討ち云々の刑罰は裁判所・司法が決定するのであって、行政府にその権利はない。死刑執行の決定を行う最終判断が、一行政府の長にその権限があるのが間違いだ。
PR
自分は『ロリコン』だ。
5歳ぐらいの女の子でも、普通に勃起することが出来る。でも個人的に一番大好き年代は、一桁と二桁の境目ぐらいが一番大好物だ。何といっても声や仕草が可愛い、愛くるしい、無条件で抱きしめてあげたくなる。ハグハグしてやりたくなる。キスしてやりたくなる。元気にはしゃいで遊び回ってる姿を見るだけで勃起してくる。肉体的にも子供から大人に変遷しつつあるちょうど過渡期。無毛の割れ目から陰毛が生えかけるか生えかけないか、ちょうど微妙なとき。つまり、そんな未成熟さがそそられる。か弱いからこそ守ってやりたくなる。愛おしさや愛情という感情が溢れ涌いてくる。もちろん、それぐらいの年代の女の子がセックルをしている成人コミックを見るのも嫌いではない。
これは天から授かったタレント、才能だと自負している。こういう性癖に対して引け目や恥を感じていることはない。だからといって、別に他人に公表するつもりも、公から認めて貰おうなどとも思っていない。自分の性癖を披露するなど、そんな露悪趣味は当方にない。しかし、露出もののAVは大好きだ。自分の趣味さえ満喫できたらそれでいい。特に幼女や少女から迫害されることなど、むしろ光栄である。「私みたいな年端もいかない幼女に、何チンコおっ勃たててるんだよ!この獣!キモヲタ野郎なんて死んじまえ!」と、小さいスベスベした素足で自分のイチモツをバンバン踏みつけて欲しい。
だからといって、大人の女を決して愛せないわけではない。本上まなみのような清楚で、天然っぽい女も昔は好きだった。昔と言うと、今は大人を愛せてないように聞こえるが、もちろん、今はただ本上まなみが好きでないという意味だ。コギャルやヤンキーのようなケバケバしい女の子も大好きである。プチ整形に頼りまくっている大塚愛も大好きだ。ヤリマンっぽいが、何といっても愛嬌がある。あれがいるだけで周りもパーッと明るくなる。そんな女を嫌いになれる男などいない。腹や乳がたるんだ熟女モノのAVを視聴するのも嫌いではない。主婦も悪くない。もちろん、根元はるみのような奇形巨乳も嫌いではない。葡萄粒だけのひんぬーオパーイも嫌いではない。バレーボール選手や競泳選手のようにごつい嫌らしい体をした女も嫌いではない。何といっても膣が広くデカい。また低身長のチビ女も嫌いじゃない。剛毛な女も、薄毛の女も、パイパンの女も嫌いではない。ニューハーフもどちらかと言えば嫌いではない。妊婦もどちらかと言えば嫌いではない部類だ。ただ、子供も好きと言うだけの話。
辻本バイブ風に言えば、自分は「変態性癖の総合商社」かもしれない。
そもそも、世の中が抱く『ロリコン』の定義自体が曖昧な気がする。日本語では「少女性愛者」などと訳されるが、少女は普通7歳から16歳ぐらいまでの女の子を指す。しかし、日本の法律では16歳はもう既に婚約できる年だ。今時の女の子は、12・3歳ぐらいになると体はほとんど大人である。この年代の女の子のセックルを、年齢を予め聞かずに視聴して、勃起しない男がどれだけいるのかという疑問もある。
40近いおっさんだった虎舞竜なんて、三船敏郎の娘と14歳ぐらいと知り合ってセックルしまくって、16歳の時には婚約している。そういう人間が、バンバンTVに出演しまくっているのだ。何故、彼が社会的に非難されないか疑問を抱くのも、自然な流れである。しかも、「愛妻家」などと世間から褒めそやされてるのだ。この扱いの違いはどこから来るのか不思議でたまらない。
つい先日、15歳の女の子が年齢詐称してAVに出演していたことが話題になった。そのサンプル動画をバッチリ見させていただいたが、15歳と聞かなければ、まず18歳以下だなんて思わない。もちろん15歳だと予め知った上で視聴すれば、15歳に見えてくるから不思議なものだ。この年代の女の子をリアルで見て、いくつぐらいの女の子なんだろうと言い当てることは難しい。認識している我々の脳みそなど極めて頼りないのだ。
「肉体的には成人女性と同じように見えても、知性や経験が異なる」という批判が聞こえてきそうだが、20代以上の成人女性も10代に負けず劣らず馬鹿は腐るほどいる。その年代の女の子に性愛を抱くことが果たして今の時代、『ロリコン』と定義づけるに相応しいかどうかは激しく微妙だ。
「肉体」で好きになるのか、ただ単に「年齢」で好きになるか、この判別は本人にも難しいし、他人がそれを判別するなど不可能である。
日本でも、まだ多くの男性の中では「処女信仰」がある。付き合った彼女が処女でなければ、何故かほとんどの男は落胆してしまう。中には、むしろ彼女から不当な攻撃を受けたと錯覚し、女に逆恨みを抱く男もいる。こういう男達と『ロリコン』が根本的に性質が違うのかと、常日頃疑問に思っている。処女な女の子が好きな男と、別にヤリマンセックル大好きの12歳の女の子が好きな『ロリコン』と、何が違うんだろう。確かに例えが極論だ。しかし、今時の女の子にどれだけ処女がいるのだろうか。「処女信仰」を掲げている非ロリの一般的な男が、実際処女の女を求めていくとしたら、必然的にその対象となる女は低年齢化していく。ちなみに、自分は子供の頃から幼女が好きだったので、『生粋のロリコン』と言っていいだろう。
で、そんな『ロリコン』という言葉を聞いて、先日26日に死刑判決が下った「小林薫」を思い出す方も多いであろう。
しかし、待っていただきたい。何故、「小林薫」のような人間を想起してしまうのだろう。ちょっとその理由を考えてみたいと思う。
5歳ぐらいの女の子でも、普通に勃起することが出来る。でも個人的に一番大好き年代は、一桁と二桁の境目ぐらいが一番大好物だ。何といっても声や仕草が可愛い、愛くるしい、無条件で抱きしめてあげたくなる。ハグハグしてやりたくなる。キスしてやりたくなる。元気にはしゃいで遊び回ってる姿を見るだけで勃起してくる。肉体的にも子供から大人に変遷しつつあるちょうど過渡期。無毛の割れ目から陰毛が生えかけるか生えかけないか、ちょうど微妙なとき。つまり、そんな未成熟さがそそられる。か弱いからこそ守ってやりたくなる。愛おしさや愛情という感情が溢れ涌いてくる。もちろん、それぐらいの年代の女の子がセックルをしている成人コミックを見るのも嫌いではない。
これは天から授かったタレント、才能だと自負している。こういう性癖に対して引け目や恥を感じていることはない。だからといって、別に他人に公表するつもりも、公から認めて貰おうなどとも思っていない。自分の性癖を披露するなど、そんな露悪趣味は当方にない。しかし、露出もののAVは大好きだ。自分の趣味さえ満喫できたらそれでいい。特に幼女や少女から迫害されることなど、むしろ光栄である。「私みたいな年端もいかない幼女に、何チンコおっ勃たててるんだよ!この獣!キモヲタ野郎なんて死んじまえ!」と、小さいスベスベした素足で自分のイチモツをバンバン踏みつけて欲しい。
だからといって、大人の女を決して愛せないわけではない。本上まなみのような清楚で、天然っぽい女も昔は好きだった。昔と言うと、今は大人を愛せてないように聞こえるが、もちろん、今はただ本上まなみが好きでないという意味だ。コギャルやヤンキーのようなケバケバしい女の子も大好きである。プチ整形に頼りまくっている大塚愛も大好きだ。ヤリマンっぽいが、何といっても愛嬌がある。あれがいるだけで周りもパーッと明るくなる。そんな女を嫌いになれる男などいない。腹や乳がたるんだ熟女モノのAVを視聴するのも嫌いではない。主婦も悪くない。もちろん、根元はるみのような奇形巨乳も嫌いではない。葡萄粒だけのひんぬーオパーイも嫌いではない。バレーボール選手や競泳選手のようにごつい嫌らしい体をした女も嫌いではない。何といっても膣が広くデカい。また低身長のチビ女も嫌いじゃない。剛毛な女も、薄毛の女も、パイパンの女も嫌いではない。ニューハーフもどちらかと言えば嫌いではない。妊婦もどちらかと言えば嫌いではない部類だ。ただ、子供も好きと言うだけの話。
辻本バイブ風に言えば、自分は「変態性癖の総合商社」かもしれない。
そもそも、世の中が抱く『ロリコン』の定義自体が曖昧な気がする。日本語では「少女性愛者」などと訳されるが、少女は普通7歳から16歳ぐらいまでの女の子を指す。しかし、日本の法律では16歳はもう既に婚約できる年だ。今時の女の子は、12・3歳ぐらいになると体はほとんど大人である。この年代の女の子のセックルを、年齢を予め聞かずに視聴して、勃起しない男がどれだけいるのかという疑問もある。
40近いおっさんだった虎舞竜なんて、三船敏郎の娘と14歳ぐらいと知り合ってセックルしまくって、16歳の時には婚約している。そういう人間が、バンバンTVに出演しまくっているのだ。何故、彼が社会的に非難されないか疑問を抱くのも、自然な流れである。しかも、「愛妻家」などと世間から褒めそやされてるのだ。この扱いの違いはどこから来るのか不思議でたまらない。
つい先日、15歳の女の子が年齢詐称してAVに出演していたことが話題になった。そのサンプル動画をバッチリ見させていただいたが、15歳と聞かなければ、まず18歳以下だなんて思わない。もちろん15歳だと予め知った上で視聴すれば、15歳に見えてくるから不思議なものだ。この年代の女の子をリアルで見て、いくつぐらいの女の子なんだろうと言い当てることは難しい。認識している我々の脳みそなど極めて頼りないのだ。
「肉体的には成人女性と同じように見えても、知性や経験が異なる」という批判が聞こえてきそうだが、20代以上の成人女性も10代に負けず劣らず馬鹿は腐るほどいる。その年代の女の子に性愛を抱くことが果たして今の時代、『ロリコン』と定義づけるに相応しいかどうかは激しく微妙だ。
「肉体」で好きになるのか、ただ単に「年齢」で好きになるか、この判別は本人にも難しいし、他人がそれを判別するなど不可能である。
日本でも、まだ多くの男性の中では「処女信仰」がある。付き合った彼女が処女でなければ、何故かほとんどの男は落胆してしまう。中には、むしろ彼女から不当な攻撃を受けたと錯覚し、女に逆恨みを抱く男もいる。こういう男達と『ロリコン』が根本的に性質が違うのかと、常日頃疑問に思っている。処女な女の子が好きな男と、別にヤリマンセックル大好きの12歳の女の子が好きな『ロリコン』と、何が違うんだろう。確かに例えが極論だ。しかし、今時の女の子にどれだけ処女がいるのだろうか。「処女信仰」を掲げている非ロリの一般的な男が、実際処女の女を求めていくとしたら、必然的にその対象となる女は低年齢化していく。ちなみに、自分は子供の頃から幼女が好きだったので、『生粋のロリコン』と言っていいだろう。
で、そんな『ロリコン』という言葉を聞いて、先日26日に死刑判決が下った「小林薫」を思い出す方も多いであろう。
しかし、待っていただきたい。何故、「小林薫」のような人間を想起してしまうのだろう。ちょっとその理由を考えてみたいと思う。
小林薫に死刑判決が下ってから、5日ほど経つ。
こういう犯罪者を見て、いつも危惧していることがある。こういう一部の人間だけを捉えて、「ロリコン=殺人犯=犯罪者=サディスト」と脳内でイメージが勝手に直結されてしまっている方が多いのではないだろうかということだ。また極端な人の中には、「異常性愛=殺人犯=犯罪者=サディスト」と脳内で(ry。確実に、『ロリコン』の中で一部にはそういう人間がいた事実があるわけだから、そういう固定観念を抱くことは強く否定しない。ただ勘違いしてほしくないのは、『ロリコン』は「少女や幼女を愛している」人間ということだ。決して、「少女や幼女を傷つけて快楽を貪る」人間ではない。
小林は『ロリコン』だけではなく、『反社会性人格障害』を持った人間でもあった。今年4月、奈良地裁で行われた公判で、『反社会性人格障害』と専門家に診断された情状鑑定が証拠として採用されている。また被害女児の遺体を傷つけたり、歯を抜いたりといった「ネクロサディズム(死体加虐)」が見られたり、また犯行直後に母親にワン切り電話を掛けたり、遺体の写メを送信したりと、行きつけのスナックだかで、常連客に被害女児の死体を撮影した写メを見せるなど、「自己顕示性」も強く見られた。
また生い立ちについても特異である。小林は幼少期から父親から暴力による虐待も受け、左目に障害があったことで小中時代にはずっと陰湿なイジメを受けていた。そして、小林は10歳の頃に母親を亡くしている。その母親が唯一の小林の理解者だったそうだ。それ以降、小林はずっと一人だった。自分を助けてくれる人も、夢や希望を与えてくれる人も周りにはいなかった。被害者意識が強く、自分は何をしても許されると罪の意識が醸成される環境になかった可能性も高い。世間や社会に「悲観」をして、強盗や殺人といった犯罪に走る例はある。決して、『ロリコン』だけにその傾向が見られるわけではないことを付け加えておく。
『ロリコン』の全員が全員、「反社会的人格障害」を抱えているわけではない。逆に、「反社会的人格障害」を抱えている人間の全員が全員、『ロリコン』だったかと問われれば、もちろんそんなわけもない。一般的な『ロリコン』は犯罪を犯さないのだ。ほとんどは人畜無害で、社会的には健全な人間だと断言する。もし健全でなかったとしたら、今頃年間1万人ぐらいのペースで子供は死んでいってるかも知れない。
小林が凶行に走ってしまった要素は、『ロリコン』以外の部分にある。要は残忍な事件を犯すのは、『ロリコン』だけに限った話ではなく、普通の性癖の男や女でも十分あり得ることということだ。宅間守は別に『ロリコン』ではなかったし、レイプ殺害犯や重大事件を犯す人間の大半が『ロリコン』だという話も当然聞いたことがない。『ロリコン』的性質はあくまで犯人の一側面に過ぎない。犯罪に走る誘因材料は、別にある。
ちょっと考えてみれば分かることだ。母親殺しの犯人の多くが「マザコン」なのか、また「マザコン」が熟女を率先的に殺害するのか、もちろんそんな関連性はない。もし犯人が焼き肉やビビンバといった韓国系の料理が好きだったら、「辛い料理は殺害衝動を駆り立てる飛んでもない料理だ」と訳の分からんことを宣うのかと…。あくまで「嗜好」や「性癖」なんて、「お飾り」に過ぎない。そのお飾りだけを見て、その犯罪の全体を語るのは早計だし、短絡的すぎる。そのお飾り自体が、犯行の引き金となったり、誘因となることはまずない。
裁判でも、小林からは幼女に対する「愛」や「執着」は殆どと言っていいほど聞かないのが好例だ。
また小林の犯行でサディズム的な要素が強いのであれば、敢えて自分が見つかるようなことはしない。できるだけ警察に見つからないように潜伏し、同じような犯行を繰り返していたはずである。少なくとも、刑務所内で模範囚として服役すれば、早く社会へ出ることが出来て、同じ犯行を繰り返せる訳だが、何故か「死刑」を頑なに懇願し、裁判を遅延させ続けている。必死に同じ犯行が行える「社会」に復帰することを拒んでいる。自分ならロリに触れられない世界など考えられないし、考えたくもない。
宅間や宮崎は何人も殺害していたから、「死刑」が確定するのは目に見えて誰もが分かっていた。だから、ああいう「自分から死刑を求める」無粋な態度を取ったとしても不思議ではないが、小林の場合は、被害者はたった一人で、死刑にならない公算は極めて強かった。裁判長を挑発しても何のメリットもない。そういう要素が強かったとするならやはり合点がいかない。
こういう犯罪者を見て、いつも危惧していることがある。こういう一部の人間だけを捉えて、「ロリコン=殺人犯=犯罪者=サディスト」と脳内でイメージが勝手に直結されてしまっている方が多いのではないだろうかということだ。また極端な人の中には、「異常性愛=殺人犯=犯罪者=サディスト」と脳内で(ry。確実に、『ロリコン』の中で一部にはそういう人間がいた事実があるわけだから、そういう固定観念を抱くことは強く否定しない。ただ勘違いしてほしくないのは、『ロリコン』は「少女や幼女を愛している」人間ということだ。決して、「少女や幼女を傷つけて快楽を貪る」人間ではない。
小林は『ロリコン』だけではなく、『反社会性人格障害』を持った人間でもあった。今年4月、奈良地裁で行われた公判で、『反社会性人格障害』と専門家に診断された情状鑑定が証拠として採用されている。また被害女児の遺体を傷つけたり、歯を抜いたりといった「ネクロサディズム(死体加虐)」が見られたり、また犯行直後に母親にワン切り電話を掛けたり、遺体の写メを送信したりと、行きつけのスナックだかで、常連客に被害女児の死体を撮影した写メを見せるなど、「自己顕示性」も強く見られた。
また生い立ちについても特異である。小林は幼少期から父親から暴力による虐待も受け、左目に障害があったことで小中時代にはずっと陰湿なイジメを受けていた。そして、小林は10歳の頃に母親を亡くしている。その母親が唯一の小林の理解者だったそうだ。それ以降、小林はずっと一人だった。自分を助けてくれる人も、夢や希望を与えてくれる人も周りにはいなかった。被害者意識が強く、自分は何をしても許されると罪の意識が醸成される環境になかった可能性も高い。世間や社会に「悲観」をして、強盗や殺人といった犯罪に走る例はある。決して、『ロリコン』だけにその傾向が見られるわけではないことを付け加えておく。
『ロリコン』の全員が全員、「反社会的人格障害」を抱えているわけではない。逆に、「反社会的人格障害」を抱えている人間の全員が全員、『ロリコン』だったかと問われれば、もちろんそんなわけもない。一般的な『ロリコン』は犯罪を犯さないのだ。ほとんどは人畜無害で、社会的には健全な人間だと断言する。もし健全でなかったとしたら、今頃年間1万人ぐらいのペースで子供は死んでいってるかも知れない。
小林が凶行に走ってしまった要素は、『ロリコン』以外の部分にある。要は残忍な事件を犯すのは、『ロリコン』だけに限った話ではなく、普通の性癖の男や女でも十分あり得ることということだ。宅間守は別に『ロリコン』ではなかったし、レイプ殺害犯や重大事件を犯す人間の大半が『ロリコン』だという話も当然聞いたことがない。『ロリコン』的性質はあくまで犯人の一側面に過ぎない。犯罪に走る誘因材料は、別にある。
ちょっと考えてみれば分かることだ。母親殺しの犯人の多くが「マザコン」なのか、また「マザコン」が熟女を率先的に殺害するのか、もちろんそんな関連性はない。もし犯人が焼き肉やビビンバといった韓国系の料理が好きだったら、「辛い料理は殺害衝動を駆り立てる飛んでもない料理だ」と訳の分からんことを宣うのかと…。あくまで「嗜好」や「性癖」なんて、「お飾り」に過ぎない。そのお飾りだけを見て、その犯罪の全体を語るのは早計だし、短絡的すぎる。そのお飾り自体が、犯行の引き金となったり、誘因となることはまずない。
裁判でも、小林からは幼女に対する「愛」や「執着」は殆どと言っていいほど聞かないのが好例だ。
また小林の犯行でサディズム的な要素が強いのであれば、敢えて自分が見つかるようなことはしない。できるだけ警察に見つからないように潜伏し、同じような犯行を繰り返していたはずである。少なくとも、刑務所内で模範囚として服役すれば、早く社会へ出ることが出来て、同じ犯行を繰り返せる訳だが、何故か「死刑」を頑なに懇願し、裁判を遅延させ続けている。必死に同じ犯行が行える「社会」に復帰することを拒んでいる。自分ならロリに触れられない世界など考えられないし、考えたくもない。
宅間や宮崎は何人も殺害していたから、「死刑」が確定するのは目に見えて誰もが分かっていた。だから、ああいう「自分から死刑を求める」無粋な態度を取ったとしても不思議ではないが、小林の場合は、被害者はたった一人で、死刑にならない公算は極めて強かった。裁判長を挑発しても何のメリットもない。そういう要素が強かったとするならやはり合点がいかない。
個人的に、その中でも小林は一番「自己顕示欲」が目立っている気がする。
それは「第二の宅間守になりたい」などと宣っていることに代表される。
まるで宅間をヒーロー視しているのだ。「僕もあのヒーローのように、注目されたいんだ」と、日曜の朝に放送されている仮面ライダーを視聴している幼稚園児 がよく語りそうな夢だ。小林は夢の中に、一人佇んでいるのだ。何でも自分が出来るとも思いこめるのが、夢の典型的な特徴だ。そして、世間に自分を注目して 欲しいだけの「さびしんぼ」の糞餓鬼なのだ。それが、唯一の自己の存在を確認できる術なのだ。何故、虚勢を張り続け、自分を強がってみせるのかの理由も至 極単純だ。そのヒーローに一歩でも近づけた気がするからだ。
犯行直後、何度も母親の携帯にワンギリしている。普通、母親などに恐怖心を与えたかったら、直接何かを喋って脅迫するはずである。そして、怯えた母親など の声を聞きたいものである。しかし、結果的に小林はそれをしなかった。もちろん自分の声を聞かせたくなかった、と犯行を隠したい意思があったのかも知れな いが、それならそもそも電話をかける必要がない。ここからは「相手を虐めて快楽を得る」というサディスト的側面よりも、ただ「自分に注目して欲しい、気付 いて欲しい」という自己顕示欲的側面しか見えてこない。
また裁判の内容などを見ていると、小林は物事を表現したり、伝えたりすることが苦手な人間ではないかとも思う。母親にかけた複数回のワンギリ電話にしろ、 母親に恐怖心を与えるなら、具体的に自分が喋って脅迫した方が遙かに効果的だ。もちろん、被害女児の遺体の写メを母親に送りつけている。しかし、自分には 自分の口で脅迫できなかったから、遺体の写メを送りつけたように思えなくもない。とにかく出来損ないの豚にしか見えない。
小林はまた遺体から何本か歯を毟(むし)り取っている。連続殺人犯が自分の犯行のお手柄として、遺体の一部を切り取ると言うことはよくある。小林に関して は、「強さの誇示」だったのではないかと思う。「俺はこれだけのことをやったんだぞ!」という具合に。だからこそ、早く遺体が見つかるように、道路脇に放 置もしたのだろう。早く自分の成果を世間に認めて欲しかったのだ。逆に考えると、小林は弱い人間だったという裏返しだ。しかし、ここでも『ロリコン』とい う側面は想起しづらい。
26日の裁判で、裁判長に主文の後回しを告げられた瞬間、まるでガッツポーズのように右手の拳を小さく数回振ったそうだ。多分、児玉清志のモノマネで一世 風靡した博多華丸の「アタァック チャァーンス!」と言った後の右手バリの微妙な揺れ加減だったのだろう。そして、死刑判決が下った直後も、無表情のままグルッとゆっくり首を回したらし い。これを聞いたとき、自分はこれは単なる小林の「幼稚な強がり」にしか思えなかった。
何かを実行しようとしても、中々自分の思うように実行できない人種であるんだと思う。だから、全知全能のヒーローのような存在に憧れているのだ。しかし宅 間守は全てが嫌になり、自暴自棄で小学校へ襲撃し、数人の子供を惨殺した。そして、別に逃亡もしなかった。「自分を殺害するために、他者を殺害した」の だ。だが、小林は全く異なる方法論を選んでいる。自分が確実に死刑になるためには、一人だけではなく、何人も子供を惨殺した方が遙かに確実だ。しかし、小 林は1ヶ月もの間、他の子供に手をかけなかった。自分は死にたくなかったのではなかったと思う。自分が生き残るための余地を残したと考えても支障はないか も知れない。
自分が死ぬことは簡単である。だから、それを予め「自分は死刑になる」と自分で予言しておくことで、いざ死刑となれば、まるで自分が書いたシナリオ通りに 進んでるかのように表面上は見える。宅間守が選択した他者の心を破壊する最善の方法である。小林が全知全能の神になったかのような錯覚を覚えるのも仕方が ない。逆に考えれば、自分を他者から干渉の受けない高見に位置づけ、相手に何もできなくさせる劣等感を与えてるということは、サディスト的な側面も垣間見 れなくもない。小林が控訴しなければその考えは成り立つかも知れないが、小林は反面自分が死にたくないという側面も残している。
6月27日、7月10日には裁判長あてに死刑懇願の手紙を送るなどして死刑を盛んに求めているのも、脳内では自分が死なないという前提があるから可能だった「自己顕示」の方法だったとも言える。
死刑判決が下った瞬間、喉をごくりと鳴らしたらしい。喉をごくりと鳴らすのは、極度に緊張やストレスが高まったときだ。自分にとっては予想外の判決を受け たから、思わず極度のストレスがかかったのではなかろうか。つまり、自分を死刑にしろと声高に叫んでいたにもかかわらず、実際には「自分が死刑になる」と は露程にも思っていなかったとも考えられる。つまり、罪の意識が芽生えたのではないかと思ったり、思わなかったり。その上で虚勢を張った行動を取ったのだ から、それが「強がり」に自分には見えたのも頷ける。
小林は『ロリコン』の仮面を被った、自己顕示欲の強い、脆弱な豚なのだ。
宅間守にもなりきれない、醜い豚なのだ。
今年1月に「死刑」が確定した宮崎勤も10年以上虚勢を張り続けてきたが、判決後、現実を直視し始めたのか途端に怯えだした。あれほど見苦しい人間を見た ことは久しくなかった。小林が「死刑」が確定してしまうか分からないが、もし最高裁で「死刑」が確定してしまえば、明日明後日の内に屠殺されることを知っ てしまった豚のように小林もガタガタ震え出すに違いない。心の奥底に仕舞っていた醜い脆弱な豚が、世間に露見されるのだ。そんな恥辱や不安に満ちた、毎日 を送るに違いない。
だから、自分が逮捕される前に、起訴される前に、最後は「自分」を殺さなければ面白くないのだ。
それをし損なった小林は、やはり出来損ないの脆弱な豚だ。
それは「第二の宅間守になりたい」などと宣っていることに代表される。
まるで宅間をヒーロー視しているのだ。「僕もあのヒーローのように、注目されたいんだ」と、日曜の朝に放送されている仮面ライダーを視聴している幼稚園児 がよく語りそうな夢だ。小林は夢の中に、一人佇んでいるのだ。何でも自分が出来るとも思いこめるのが、夢の典型的な特徴だ。そして、世間に自分を注目して 欲しいだけの「さびしんぼ」の糞餓鬼なのだ。それが、唯一の自己の存在を確認できる術なのだ。何故、虚勢を張り続け、自分を強がってみせるのかの理由も至 極単純だ。そのヒーローに一歩でも近づけた気がするからだ。
犯行直後、何度も母親の携帯にワンギリしている。普通、母親などに恐怖心を与えたかったら、直接何かを喋って脅迫するはずである。そして、怯えた母親など の声を聞きたいものである。しかし、結果的に小林はそれをしなかった。もちろん自分の声を聞かせたくなかった、と犯行を隠したい意思があったのかも知れな いが、それならそもそも電話をかける必要がない。ここからは「相手を虐めて快楽を得る」というサディスト的側面よりも、ただ「自分に注目して欲しい、気付 いて欲しい」という自己顕示欲的側面しか見えてこない。
また裁判の内容などを見ていると、小林は物事を表現したり、伝えたりすることが苦手な人間ではないかとも思う。母親にかけた複数回のワンギリ電話にしろ、 母親に恐怖心を与えるなら、具体的に自分が喋って脅迫した方が遙かに効果的だ。もちろん、被害女児の遺体の写メを母親に送りつけている。しかし、自分には 自分の口で脅迫できなかったから、遺体の写メを送りつけたように思えなくもない。とにかく出来損ないの豚にしか見えない。
小林はまた遺体から何本か歯を毟(むし)り取っている。連続殺人犯が自分の犯行のお手柄として、遺体の一部を切り取ると言うことはよくある。小林に関して は、「強さの誇示」だったのではないかと思う。「俺はこれだけのことをやったんだぞ!」という具合に。だからこそ、早く遺体が見つかるように、道路脇に放 置もしたのだろう。早く自分の成果を世間に認めて欲しかったのだ。逆に考えると、小林は弱い人間だったという裏返しだ。しかし、ここでも『ロリコン』とい う側面は想起しづらい。
26日の裁判で、裁判長に主文の後回しを告げられた瞬間、まるでガッツポーズのように右手の拳を小さく数回振ったそうだ。多分、児玉清志のモノマネで一世 風靡した博多華丸の「アタァック チャァーンス!」と言った後の右手バリの微妙な揺れ加減だったのだろう。そして、死刑判決が下った直後も、無表情のままグルッとゆっくり首を回したらし い。これを聞いたとき、自分はこれは単なる小林の「幼稚な強がり」にしか思えなかった。
何かを実行しようとしても、中々自分の思うように実行できない人種であるんだと思う。だから、全知全能のヒーローのような存在に憧れているのだ。しかし宅 間守は全てが嫌になり、自暴自棄で小学校へ襲撃し、数人の子供を惨殺した。そして、別に逃亡もしなかった。「自分を殺害するために、他者を殺害した」の だ。だが、小林は全く異なる方法論を選んでいる。自分が確実に死刑になるためには、一人だけではなく、何人も子供を惨殺した方が遙かに確実だ。しかし、小 林は1ヶ月もの間、他の子供に手をかけなかった。自分は死にたくなかったのではなかったと思う。自分が生き残るための余地を残したと考えても支障はないか も知れない。
自分が死ぬことは簡単である。だから、それを予め「自分は死刑になる」と自分で予言しておくことで、いざ死刑となれば、まるで自分が書いたシナリオ通りに 進んでるかのように表面上は見える。宅間守が選択した他者の心を破壊する最善の方法である。小林が全知全能の神になったかのような錯覚を覚えるのも仕方が ない。逆に考えれば、自分を他者から干渉の受けない高見に位置づけ、相手に何もできなくさせる劣等感を与えてるということは、サディスト的な側面も垣間見 れなくもない。小林が控訴しなければその考えは成り立つかも知れないが、小林は反面自分が死にたくないという側面も残している。
6月27日、7月10日には裁判長あてに死刑懇願の手紙を送るなどして死刑を盛んに求めているのも、脳内では自分が死なないという前提があるから可能だった「自己顕示」の方法だったとも言える。
死刑判決が下った瞬間、喉をごくりと鳴らしたらしい。喉をごくりと鳴らすのは、極度に緊張やストレスが高まったときだ。自分にとっては予想外の判決を受け たから、思わず極度のストレスがかかったのではなかろうか。つまり、自分を死刑にしろと声高に叫んでいたにもかかわらず、実際には「自分が死刑になる」と は露程にも思っていなかったとも考えられる。つまり、罪の意識が芽生えたのではないかと思ったり、思わなかったり。その上で虚勢を張った行動を取ったのだ から、それが「強がり」に自分には見えたのも頷ける。
小林は『ロリコン』の仮面を被った、自己顕示欲の強い、脆弱な豚なのだ。
宅間守にもなりきれない、醜い豚なのだ。
今年1月に「死刑」が確定した宮崎勤も10年以上虚勢を張り続けてきたが、判決後、現実を直視し始めたのか途端に怯えだした。あれほど見苦しい人間を見た ことは久しくなかった。小林が「死刑」が確定してしまうか分からないが、もし最高裁で「死刑」が確定してしまえば、明日明後日の内に屠殺されることを知っ てしまった豚のように小林もガタガタ震え出すに違いない。心の奥底に仕舞っていた醜い脆弱な豚が、世間に露見されるのだ。そんな恥辱や不安に満ちた、毎日 を送るに違いない。
だから、自分が逮捕される前に、起訴される前に、最後は「自分」を殺さなければ面白くないのだ。
それをし損なった小林は、やはり出来損ないの脆弱な豚だ。
「小林薫」には1989年(20歳)と1991年(22歳)の時に、幼女に対する二度の性犯罪の前科がある。一度目は8人の幼女に対する強制猥褻、二度目は1人の幼女に対する首を絞めた事による殺人未遂。しかし、1991年から2年の懲役に服役した後は、職を転々としている。父親からも断絶され、まさに天涯孤独の身だった。そのうちに何らかの理由で、小児性愛、「ロリコン」の部分よりも、「反社会的人格障害」の部分の方が増大していったのではないかと思う。女児に対する事件を起こした1991年から2004年の13年の年月の間、それらしい事件は犯していない。
性犯罪は比較的「再犯率」が高いと言われる。もちろん数字的な根拠はない。一体、何年間の内に再犯してしまえば、数字に勘定されるのか分からないし、性犯罪を犯し、何年間か拘置所に入れられ出所し、経済難から万引きをして逮捕されました。これでも「再犯率」の数字に勘定されている。しかし、この場合は「再犯率」とは呼ばず、「再犯者率」と呼ぶのが本来は適切である。もし性犯罪者が出所して、また性犯罪を犯す率、つまり「真の再犯率」が高いのであれば、13年間も幼女に手を出さずに我慢できるかは激しく疑問である。これで「常習性がある」と裁判所が判断したことは、いささか行きすぎた判断であると言わざるを得ない。
で、最終的に犯行に及んでしまった理由を考えたとき、「小林薫」が凶行に走った数ヶ月前にアレの死刑執行が行われている。そう、2004年9月に大阪教育大付属池田小の「宅間守」である。小林が事件を犯したのは、同年の11月。その間は、たった2ヶ月だ。宅間守の死に激しく何かを感化されたのだろう。「第二の宅間守」になりたいと宣っていることからも、その「理由」として可能性は決して低くはない。
つまり、「性」が決して犯罪を誘引するとは言い切れないということだ。
性犯罪は比較的「再犯率」が高いと言われる。もちろん数字的な根拠はない。一体、何年間の内に再犯してしまえば、数字に勘定されるのか分からないし、性犯罪を犯し、何年間か拘置所に入れられ出所し、経済難から万引きをして逮捕されました。これでも「再犯率」の数字に勘定されている。しかし、この場合は「再犯率」とは呼ばず、「再犯者率」と呼ぶのが本来は適切である。もし性犯罪者が出所して、また性犯罪を犯す率、つまり「真の再犯率」が高いのであれば、13年間も幼女に手を出さずに我慢できるかは激しく疑問である。これで「常習性がある」と裁判所が判断したことは、いささか行きすぎた判断であると言わざるを得ない。
で、最終的に犯行に及んでしまった理由を考えたとき、「小林薫」が凶行に走った数ヶ月前にアレの死刑執行が行われている。そう、2004年9月に大阪教育大付属池田小の「宅間守」である。小林が事件を犯したのは、同年の11月。その間は、たった2ヶ月だ。宅間守の死に激しく何かを感化されたのだろう。「第二の宅間守」になりたいと宣っていることからも、その「理由」として可能性は決して低くはない。
つまり、「性」が決して犯罪を誘引するとは言い切れないということだ。
別に、小林薫が犯した犯罪を擁護するつもりはない。
そもそも、自分は「死刑制度廃止論者」なのだ。
自分の血縁者が被害者だった場合以外に、
その加害者が誰であろうとその気持ちは基本的に変化はしない。
ただ、それだけである。
加害者の死刑執行が行われる日や時刻が、被害者に全く知らされず執行されるからだ。確かに、「更正の見込みのない」凶悪犯は社会に二度と出すべきではないかも知れない。だからといって、「死刑」という選択を取る必要は全くないわけである。別に無期懲役でもいいし、終身刑を導入するとか、社会から全く隔離する術はいくらでもある。それに「更正の見込みがない」という理由だけで、「死刑」にされてしまうのであれば、いくらでも「死刑」にすべき犯罪者は腐るほどいるのではないかとさえ思う。
要は「日本の死刑」は、何のために執行されるかその動機や理由が見あたらない。単なる「国家権力の誇示」のために死刑執行があるようにしか思えない。誰のために行われる「死刑」なのか、甚だ疑問でならない。
そして、どうやらこの小林も「更正の見込みがない」犯罪者の一人だったようだ。
しかし、本来は「更正の見込み」の有無で死刑かどうかを判断するのではなく、「犯した犯罪の重さ」で刑を確定するべきである。むしろ「更正」という観点に重きを置き、刑の軽減を図る意味が分からない。
日本の裁判の中で、死刑に当たる罪というのは、「3人か4人ばかし殺害」したか、「金銭目的による強盗殺人」か、「過去に殺人を犯し、また殺人を犯した」かの大体三点である。小林の場合は、どれにも抵触せず「レイプ殺人」だった。「レイプ殺人」が「強盗殺人」よりも劣るかどうかは疑問である。実際、そういう声を上げる世論が多かった。確かに不自然である。
しかしながら、裁判長は「更正の見込みがない」という点を重視してしまった。
「更正の見込み」などいつ心の中に芽生えるか分からない。前に、ガンに罹患している受刑者が出ていたドキュメンタリー番組を見た。別に死刑ではなかったが、その受刑者は人を一人殺害したらしい。ガンに罹患するまでは、反省や謝罪の念は一度も芽生えなかった。しかし、自分がいざ「死」に直面したときに、「本当に自分が悪いことをしたんだ」と真摯に、自分がしでかした罪の重さに向き合えたらしい。そして、涙していた。面会しにきた牧師か僧侶に、その心の丈を全てぶちまけた後、死んだ。最後の最後、人間は死ぬまで「更正の機会」が存在しているのだ。
小林は自分の母親と被害女児の母親を、少し重ねていたのではないだろうか。自分を見て欲しかっただけではなかろうか。ただの『ロリコン』なら、被害者の母親にメールを送りつけ、恐怖心を与える動機が見あたらない。ただ子供の女児を犯せばいいだけだ。接見した月刊誌『創』の編集長に対して、「(自分が殺害した女児は)きっと母親に愛されていたんだろうな」と羨望の念を漏らしていたらしい。小林は26日の裁判で、被害女児の両親が座っていた傍聴席には最後まで目を向けなかったことから、少しは罪の意識は感じていたのかも知れない。その可能性は誰も否定できない。
少なくとも、被害者家族の目の前で、アメリカのように死刑が執行される方法をとれば、もしかしたら、謝罪の言葉を漏らすかも知れない。もちろん、最後の悪あがきをするかもしれない。しかし、被害者家族から隔離した所で、死刑を執行してしまえば、その可能性すら奪われてしまう。これは問題視しなければならないと思う。
また死刑が執行される当日まで、死刑囚にはそのことが伝えられないというのも不可解だ。被害者家族の目の前で殺されるわけでもなく、無駄死にとは少し言い過ぎかも知れないが、それに匹敵するぐらいあまり意味のない死を与える、と思う。
だから、自分は死刑反対論者なのだ。強い強い。
そもそも、最高裁判所なり司法が下し、既に確定された刑を、行政の長である法務大臣が、その執行の有無の決定を判断するというのも不自然極まりない。法務大臣が最終的に決定するのであれば、極論すると最高裁判所などは必要がない。しかも、宗教上の理由で、死刑の執行サインを拒む人間がいたり、やたらめったら死刑死の執行のサインをポンポン押す人間もいる。何のための司法なのか分からない。
日本の死刑制度は矛楯を孕みまくっている。双子や三つ子どころではない。
長々と書いてきたが、言いたいことはただ一つ。
「美幼女と一緒にお風呂に入って、仲良くイチャイチャしたい」ということだけだヘ(゚∀゚ヘ)アヒャ
そもそも、自分は「死刑制度廃止論者」なのだ。
自分の血縁者が被害者だった場合以外に、
その加害者が誰であろうとその気持ちは基本的に変化はしない。
ただ、それだけである。
加害者の死刑執行が行われる日や時刻が、被害者に全く知らされず執行されるからだ。確かに、「更正の見込みのない」凶悪犯は社会に二度と出すべきではないかも知れない。だからといって、「死刑」という選択を取る必要は全くないわけである。別に無期懲役でもいいし、終身刑を導入するとか、社会から全く隔離する術はいくらでもある。それに「更正の見込みがない」という理由だけで、「死刑」にされてしまうのであれば、いくらでも「死刑」にすべき犯罪者は腐るほどいるのではないかとさえ思う。
要は「日本の死刑」は、何のために執行されるかその動機や理由が見あたらない。単なる「国家権力の誇示」のために死刑執行があるようにしか思えない。誰のために行われる「死刑」なのか、甚だ疑問でならない。
そして、どうやらこの小林も「更正の見込みがない」犯罪者の一人だったようだ。
しかし、本来は「更正の見込み」の有無で死刑かどうかを判断するのではなく、「犯した犯罪の重さ」で刑を確定するべきである。むしろ「更正」という観点に重きを置き、刑の軽減を図る意味が分からない。
日本の裁判の中で、死刑に当たる罪というのは、「3人か4人ばかし殺害」したか、「金銭目的による強盗殺人」か、「過去に殺人を犯し、また殺人を犯した」かの大体三点である。小林の場合は、どれにも抵触せず「レイプ殺人」だった。「レイプ殺人」が「強盗殺人」よりも劣るかどうかは疑問である。実際、そういう声を上げる世論が多かった。確かに不自然である。
しかしながら、裁判長は「更正の見込みがない」という点を重視してしまった。
「更正の見込み」などいつ心の中に芽生えるか分からない。前に、ガンに罹患している受刑者が出ていたドキュメンタリー番組を見た。別に死刑ではなかったが、その受刑者は人を一人殺害したらしい。ガンに罹患するまでは、反省や謝罪の念は一度も芽生えなかった。しかし、自分がいざ「死」に直面したときに、「本当に自分が悪いことをしたんだ」と真摯に、自分がしでかした罪の重さに向き合えたらしい。そして、涙していた。面会しにきた牧師か僧侶に、その心の丈を全てぶちまけた後、死んだ。最後の最後、人間は死ぬまで「更正の機会」が存在しているのだ。
小林は自分の母親と被害女児の母親を、少し重ねていたのではないだろうか。自分を見て欲しかっただけではなかろうか。ただの『ロリコン』なら、被害者の母親にメールを送りつけ、恐怖心を与える動機が見あたらない。ただ子供の女児を犯せばいいだけだ。接見した月刊誌『創』の編集長に対して、「(自分が殺害した女児は)きっと母親に愛されていたんだろうな」と羨望の念を漏らしていたらしい。小林は26日の裁判で、被害女児の両親が座っていた傍聴席には最後まで目を向けなかったことから、少しは罪の意識は感じていたのかも知れない。その可能性は誰も否定できない。
少なくとも、被害者家族の目の前で、アメリカのように死刑が執行される方法をとれば、もしかしたら、謝罪の言葉を漏らすかも知れない。もちろん、最後の悪あがきをするかもしれない。しかし、被害者家族から隔離した所で、死刑を執行してしまえば、その可能性すら奪われてしまう。これは問題視しなければならないと思う。
また死刑が執行される当日まで、死刑囚にはそのことが伝えられないというのも不可解だ。被害者家族の目の前で殺されるわけでもなく、無駄死にとは少し言い過ぎかも知れないが、それに匹敵するぐらいあまり意味のない死を与える、と思う。
だから、自分は死刑反対論者なのだ。強い強い。
そもそも、最高裁判所なり司法が下し、既に確定された刑を、行政の長である法務大臣が、その執行の有無の決定を判断するというのも不自然極まりない。法務大臣が最終的に決定するのであれば、極論すると最高裁判所などは必要がない。しかも、宗教上の理由で、死刑の執行サインを拒む人間がいたり、やたらめったら死刑死の執行のサインをポンポン押す人間もいる。何のための司法なのか分からない。
日本の死刑制度は矛楯を孕みまくっている。双子や三つ子どころではない。
長々と書いてきたが、言いたいことはただ一つ。
「美幼女と一緒にお風呂に入って、仲良くイチャイチャしたい」ということだけだヘ(゚∀゚ヘ)アヒャ
カレンダー
11 | 2024/12 | 01 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 |
15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 |
22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
29 | 30 | 31 |
カテゴリー
最新記事
(12/12)
(12/31)
(12/31)
(12/30)
(12/30)
(12/29)
(12/29)
(12/28)
(12/27)
(12/27)
(12/26)
(12/25)
(12/23)
ブログ内検索
アーカイブ
最古記事
(08/13)
(08/13)
(08/13)
(08/13)
(08/13)
(08/13)
(08/13)
(08/14)
(08/15)
(08/16)
(08/16)
(08/16)
(08/18)
アクセス解析