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『格差』と『貧困』と『不平等』を広げる自民党・創価学会・経団連を抹殺せよヽ(´∀`)9 ビシ!!  これでは、日本のお先は真っ暗(*∀*)YO!!
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一度負けた相手(アメリカ)に対しては、何度負けても自分のプライドが傷つかないが、いやむしろ徹底的に降伏するが、一度も負けたことがない相手(中韓)に対しては、一度も負けられない。何と下らないプライドなのだろう。『保守主義』はしょぼい。さすが鼻くそが国家元首を務めている国だけある。その下らないプライドやらを維持するために、必死に思考を停止させる。何と馬鹿馬鹿しい。

犬の分際如きが飼い主様を選ぶな「馬鹿たれ!」と、ゴルフクラブで思いっきり叱咤・撲殺してやりたい。どうせ日本人は劣った犬にしかなれないんであれば、良い餌を与えてくれる飼い主に媚びるのが当たり前だ。そもそも馬鹿な犬は、どちらのご主人様にも媚びるのが犬として本来取るべき道だ。しかも、仮にどちらの飼い主の方を選ばなければイケないとして、犬として生活する上でどちらが楽だろうか?明白である。ここで鼻高ノッポを選ぶようでは、犬として半人前の「単なる馬鹿」だ。
こういう『思考停止』の劣った思想が、『保守主義』なのだ。『思考停止』が何を生む?『思考停止』の小泉が何を生んだ?『保守主義』が『貧困』を生んだ。『保守主義』こそゴミ。日本国を駄目にしたのが、『保守主義』なのだ。それが『自民党』であり、『産経』である。


『保守主義』は現状維持志向。選択肢は常に一つ。皇室典範改正論議などを見ても明白。結論ありきで動かない。困難な状況を打破するだけの力も思想も能力もないのが、『保守主義』なのだ。

小泉は典型的な現状維持。思考停止、動かない。北朝鮮拉致問題は一向に進展が見られない。解決に道筋など論外である。領土問題、雇用問題、医療問題など、全く進展していない。「思考停止」が何か日本人に利益をもたらしたか?答えは明白だ。
日本や世界はグローバリズムの思想やシステムが蔓延している。激動する社会や経済で、思考停止の保守で対応できるのか。しかも、そんな世界に日本を促したのは、何を隠そう左翼でもリベラルでもなく、保守である自民党じゃないか。自分でそんな社会をもたらしておきながら、それに対応する術がない。右往左往、がんじがらめ。ましてや、そういう現状を打破しようと努力すらしない。まさしく糞である。

『保守』こそ「究極の無能」と言って、何ら差し支えはない。オウムの麻原は国家転覆を目論んでいたらしい。しかし、自分には「自民党」こそが国家転覆を目論んでいるようにしか見えない。

今日は奇しくも『敬老の日』だが、こういう古くさい『保守主義』を掲げている自民党(ジジイ)を敬おうと思う国民は果たしていたのだろうか?
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昨日、フジテレビで映画版『映画男』が放映されていた。
初めて見た。感想としては悪くなかった。

ドラマ版とはまた違った趣で、面白かった。
俳優が「本格派」と言ったら失礼だが、
中谷美紀とか瑛太とか「実力派」俳優が多くて、
ドラマ版とはまた違った、しっかりした『電車男』に仕上がっていた。
見ている方としては、それが新鮮に映った。
ちゃんとAAを使ってたし、映画版の方がよりリアルだった。
ドラマ版と違って、過度な演出も少ないのも良かった。
まあ当たり前だが、ストーリーの構成は一緒。

住人が少なかったのが、少し物足りなかった。
ドラマ版の方が多すぎたから、そう思ってしまうのかも知れないが、
「本格派」俳優というのは、ギャラの方もちゃっかり「本格派」なんでしょうな…。
ドラマ版を先に見ていた身としては、映画版は展開も早かった。
2時間で何かを伝える・表現するってのは難しいだろうか。
いつも映画を見ていて思うが、必ず「消化不良感」を味合わされる。
2時間後に、しっかり溜飲が下るような映画ってまずない。
それで1500円近くも取られるのは、正直納得がいかない。

ただ、山田がやりチンだったというのが、あまり感情移入できなかったかも。
伊藤と違って物凄く演技が上手かったけど、ヲタとは全く相反する男がやるというのは…
映画公開前にそれが発覚していたら、もしかしたら流行ってなかったのかも。



てか、来週放送されるドラマ版のスペシャルはヒドスwww
南の島に行くとかどういうことだよwwww
ネット上のやりとりをどう絡めてくるんだろう。。。

『電車男』は、リアルとネットとの微妙な境目があるからいいんだよ。
そこを行ったり来たりする、「虚構」と「現実」の小旅行と言うのかな。
「現実」は日常そのものだけど、「虚構」もまた日常そのものなんだよね。
日常と日常のリンクがあって、それがまた妙なリアルさを醸し出してた。

「現実」で何か日常的なことが起こり、「虚構」で日常のことを書き込み、日常のことを閲覧し、
またその「虚構」の日常が、「現実」の日常に作用し、新たな日常を生む。
日常と日常の作用・反作用というか、影響を及ぼし合う様が見ていて面白かった訳だ。

南の島なんて「非現実」「非日常」の象徴的なものじゃないかと。
リアルさの欠片もない、ただの普通のドラマを作ってどうすると。


しかし、落ち着きのある年上の女はいいなぁと。
自分の全てを任せたくなる。全てを委ねたくなる。
身も心も抱きしめられたい。
もし、あんな女と付き合えたら、二度と離したくないだろうな。
紀子もあんな感じの女なんだろうか。文仁ウラヤマシス

あーー、中谷美紀とセックルしてえええええええええええ。
昨日、深夜『M-1甲子園2006』という、その名の通り、高校生が漫才で日本一を決める番組が放送されていた。

全体の印象として、完成度が高い漫才が多かった気がする。滑舌や声量は、もちろんまだまだだった。出場者が、今、巷を賑わせている高専とか学習能力は高いボンボンが多かったせいか、笑いの理論をちゃんと理解している高校生が多かった。それもちゃんと形にするだけの表現があった。血の滲む努力もしたのだろう。流れも比較的、綺麗だった。そこらへんの売れない漫才師・お笑い芸人よりは面白かったコンビも多かった気がする。
昨日15日、オウム真理教(現・アーレフ)の麻原彰晃こと松本智津夫の死刑が確定した。麻原の弁護団は控訴趣意書の提出が意図的にか、単なる事務的なミスかは知らないが遅れた。なんだかんだあって(新聞とかネットで調べた方が早い)、今年3月27日、高裁は控訴を棄却した。弁護団は最高裁に特別抗告の申し立て。しかし、昨日9月15日、最高裁は麻原には訴訟能力があると認定した高裁の鑑定書は信用たるということで、その特別抗告を棄却。で、麻原しぼーんと。

当然の結果なんだろう。しかし、松本が何も話さなかったことが残念である。それを淡々と何年も続けさせたことを考えると、弁護士も検察官も裁判官も何だかグズグズだった。1審の段階、裁判のかなりの当初から、麻原はあの調子だったはずだ。何故、周りは子供をネグレクトをする親のように、麻原を放置し続けたのか。メディアも罪が重い。

よく何年も時間が掛かりすぎだと非難があるが、自分はそうは全く思わない。事件の数、つまり被害者の数が多いからだ。しかも、その被害者の多くは重度な後遺症に苦しんでいる。脳障害であったり、精神的トラウマであったり。裁判を更に迅速に進めるため、確か地下鉄サリン事件の死亡していない被害者は含まれていないはず。麻原は27人を殺害した殺人罪の罪でしか問われていないのだ。殺害された27人の数十倍の被害者は、「裁判の迅速化」という名目のためになおざりにされた。裁判にすら行けない、救われない被害者が多数生まれた。

裁判とは被害者の声を加害者や社会に訴える、伝える場ではないのか。重大な事件、特に事件の数や被害者数が多い場合は、なおさら裁判に時間を掛けていい。「迅速化」という名目のために、泣くような被害者が生まれてしまっては、それこそ本末転倒である。

しかし、この数年が中身が伴った、被害者が報われるような裁判が行われたとは当然思わない。この努力は麻原自身が行うべきだったし、何より弁護士・検察官・裁判官が怠った罪は極めて重い。だからといって、「裁判の迅速化」が全てではないし、それをことさら追求すべきことではない。

もう少ししたら、一般市民が司法・裁判に参加する「裁判官制度」が始まる。そのために、「裁判の迅速化」が絶対命題であるかのように、法務省などはやっきになっている。ブタエモンの裁判などが好例だ。麻原の裁判を見ていたら、まだ拙速すぎやしないかと疑問が芽生える。「迅速化」が被害者を救えたのだろうか。
「松本のカリスマ性があったから、引き起こされた事件」
などと上祐はTVで、自分たちが起こした事件に対して振り返っていた。逆に言えば、麻原を「カリスマ的である」と称賛しているようにしか聞こえない。もしかしたら、彼らの中で箱の発言を聞いて、「麻原は、過去『神』だった」と思いこめる信者もいるかもしれない。上祐は新しい教団を作りたいとも宣っているが、基本的にオウムの『教義』を捨てていない。彼らの心や脳みその中では、まだ麻原が深く根付き、今も生々しく生き続けている。

その証拠に、彼らは今も苦しみ生き続けている被害者に対して、完全な賠償や謝罪がほとんど進んでいない。いくら口先で「死刑は妥当だ」「私たちは間違っていた。麻原も間違っていた」と言っても説得力が帯びてこない。結局は、麻原を信奉し、自分たちが救われたいだけなのだ。


じゃあ、今も苦しみ生き続けている被害者はどうなっているのか?と疑問にも持たれる方も多いだろう。オウムが誠意ある態度や行動を取っていない間、その被害者は行政や国から何らかの公的支援を受けているのだろう…と思い込んだ方は大間違い。国は苦しみ生き続けている被害者に対して、全く公的な支援は行っていない。放置し続けているのだ。国がオウムの財産を差し押さえればいいではないかと思った方もいるかも知れないが、それもやっていない。正確にはそんな財産がオウムにはないと言った方がいいのかも知れない。

被害者の中には、中毒患者やかなり重い後遺症の人間に対して、精神的トラウマを抱えてる人間も多い。そういう被害者に対して、医療的な支援などが全く公的に行われていないことは由々しき大問題だ。じゃあ、被害者は一体どうすればいいのだ?オウムに対して、逆テロを起こせとでも言うのか?そこはオウムがすべき賠償の代わりに国が肩代わりし、被害者を救う。そして、その分をオウムから国が取ればいい。これが誰が見ても正常な形である。オウムのテロの被害者など、『弱者』の中の『弱者』である。国が救わなければ、誰が救うというのだ。

オウムをさらさら擁護するつもりはないが、政府は何をトロトロやっているのか?銀行に対しては即座に公的資金を投入するのに、今も苦しむ被害者には何らの公的な支援も行わないとは、我が日本国政府は『非人道的』にも程がある。中国政府も真っ青である。

こんな国が国民に対して「愛国心を持て」と冗談をブチかましている。巫山戯た話だ。弱者を救えないくせに、全く何様だ。事件が起きて何年もの間、国はこういう弱者を放置しているのだ?当然、オウム(現・アーレフ)は誹(そし)りを免れない。しかし、日本国政府もその誹りは免れない。我が日本国政府もオウムのテロの加担者と断罪する。

我が日本国政府は、散々「テロとの戦い」で日本国民の命を守ると宣っておきながら、日本で起きてしまった世界初の化学テロの被害者を救わないのだ。いや、救おうとすらしていない。日本国政府は「現在進行形」で国民の命を見殺しにしようとしている。

これから先、日本国民がテロの危険に晒されたとき、こんな国が自分たちの命を守ってくれるのか、またテロの被害から救ってくれるのか、甚だ疑わしい。我が日本国政府は、なんと「詭弁の塊」の糞であろう。オウムのテロの悲しみが今だ止むことがないのは、我が政府がその一端を担っている。
昨日15日、自民党は金融調査会・法務部会・財務金融部会の合同会議で、金融庁案が出した貸金業制度改革案に関する議論に一応の決着を出した。

結論を先に述べると、自民党も『グレーゾーン金利』を撤廃することができなかった。金融庁案を小手先に弄っただけの、骨抜きに終わった。

金融庁案が自民党案で、どこが具体的に変化したのだろう。
『グレーゾーン金利』撤廃まで金融庁案は最高5年、自民党案は最高3年。
『グレーゾーン金利』後の「特例金利」の上限金利は、金融庁案は28.0%、自民党案は25.5%。
「特定金利」を認める期間は、金融庁案は4年、自民党案は2年。
その個人向けの融資対象額は、金融庁案は元本50万円、自民党案は元本30万円。
期間は1年と変化していない。

強烈な批判があった金融庁案と、何ら自民党案は変わっていなかった。「多重債務者救済」の理念からはほど遠い。業者にすり寄った内容であるという誹(そし)りは免れない。これで朝日新聞は、「金融庁の原案よりも業者に厳しい内容で決着」などと宣っている。これのどこが業者にとって厳しいのか。元々、金融庁案が甘すぎただけだ。「業者に厳しい内容」とは片腹痛い。金融庁案を基準にして考えたら、自民党案が例えどんな案を出したとしても、そう評価されてしまうだろう。ましてや、「大幅修正による決着に踏み切った」などとさも自民党が苦渋の決断をしたかのように報道している。朝日も許されるべきではない。

これでは、政府が実質『グレーゾーン金利』にお墨付きを与えてしまったようなものだ。このことを以てして、「自民党様が『グレーゾーン金利』が撤廃してくれたわ」と褒めそやすのは早急すぎるし、片腹痛い。消費者金融業界のロビー活動、政治献金攻勢に、自民党議員が屈服してしまった。『特例金利』(25.5%)は、『グレーゾーン金利』からはたかだか3.7%しか下がっていない。金融庁の当初案からはたかだか2.5%しか下がっていない。実質、多重債務者を生んでいる高金利・グレーゾーン金利が5年近くも続く。それを了承してしまったのだから。


また金融庁案でも自民党案でも、消費者金融業者の信用情報機関への加入が義務付けられている。これは、多重債務者の残高情報の交換をし、債務者へ貸し付けの焦げ付きを回避することを目的としている。今まで、消費者金融業者の言い分は、高金利で債務者に貸さない限り、焦げ付いた場合、利子やら元金が返ってこないからだとブーたれていた。しかし、業者間同志で、こういう情報交換をしていなかったのだから、驚きだ。自分たちに金が返ってこないのは自業自得だったのだ。それで「高金利にしなければ、債務者に金を貸せない」とぬかしていた。馬鹿も休み休み言え、ぬっ頃すぞと。

つまり、信用情報機関への加入が義務づけられたと言うことは、そういう不測の事態が減ると言うことだ。言い換えると、「消費者金融が、高金利で債務者に金を貸す意味がなくなる」と言うことだ。

ここで疑問が湧いてくる。金融庁案も、自民党案もそうだが、何故『「特定金利」を認めているか』という点である。「高金利」を認める意味は既になくなっているはずだ。何故、認める?自民党は「金」に屈したのだ。消費者金融業界からの多額な政治献金を受けているからだ。自民党も、多重債務者と同じく「金の魔力」に屈したのだ。許せない。

多重債務者を救うのは、行政であり国の仕事である。決して、消費者金融業者の仕事ではない。むしろ、多重債務者を生んでいるのは貴様らなのだ。反省するのは貴様らなのだ。
「特定金利」という言葉がよく新聞などで躍っているが、そもそもこれはどういう意味だろう。「特例」とは?
「少額」の貸し付けで、「短期」に限っては、高金利・グレーゾーン金利を認めようという、飛んでもない金利のことである。消費者金融業界からの圧力で、金融庁が生み出した。

「少額」であれば別に問題ないじゃん、とほざく奴はぶっ殺しである。「少額」とは言っても、今回自民党が妥協した案では、先述したが『30万円』である。金融庁案では何と『50万円』であった。金融庁案では、『50万円』を1年で完済しようと思えば、毎月5万円以上を返済しなければならない。借金するような人間が、毎月そんな大金を返済できるだろうか?もちろん、否である。そもそも、そんな返済能力や金銭感覚があれば、借金などしていない。それが、自民党案では『30万円』に引き下げられたが、その債務者に掛かる負担たるはほぼ変化しない。「少額」であろうが、「短期」であろうが、こんな20%以上もの高金利を認めてはならないのだ。自民党は誤った選択を選んだ。

1社あたりの借入額が50万円以上、借入総額100万円以上の場合、所得証明書などでの審査が必要にし、そして、借入総額の上限も年収の3分の1に制限するようにするらしい。しかし、多重債務者は何社もの消費者金融業者を利用させられている。実質無意味ではないだろうか。3社から借りてしまえば、借入総額は年収に軽く達してしまう。


「消費者金融で借りられない人間が、闇金に流れてしまうかも知れない」と宣った自民党議員もいたが、闇金を厳しく規制するのが政治や金融庁の仕事であり、闇金を容認するような発言は許せない。そもそも貸金業などは元々アンダーグラウンドな業界・仕事なのだ。それが世間様に大手を振って、さもまともな企業・会社であるかの振る舞っていることが大間違い。そこら中に存在していることなど論外だ。消費者金融・ヤミ金融は暴力団と同じなのだ。

また金融庁は「『特例金利』に需要がないわけではないから残せ」と宣ったらしい。こんな金利でも金に借りに来るのは、本当にせっぱ詰まっている多重債務者しかいない。この多重債務者を救おうというのが、貸金業規制の議論の発端だ。金融庁は国賊だ。
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